「念仏すれば救われる」なんて言われても「はい、わかりました。ナムアミダブツ・・・・」と素直に言える方は殆どいらっしゃらないのではないでしょうか。
また「南無阿弥陀仏」と念仏申しながらであっても「念仏して何になる」「仏様は本当に救ってくださるのか」「仏様は本当にいらっしゃるのか」「仏様はどこにいらっしゃるのか」等々、念仏や仏様に対する疑問や疑いのこころでいっぱいでとても素直な念仏といえるものではありません。
それでは仏様とはどんな人か知ることができれば、念仏できるのか?
例えば、富士山を見て感動した人が、富士山という山を見たことも聞いたこともない人に対して、富士山とはどういう山であるか、そしてどういうところに感動したのか、いくら口で説明してもなかなか伝えることが難しい。写真や図鑑などを見て研究や分析をすれば富士山とはどういう山であるかということは理解できるかもしれませんが、そこには感動はありません。やはり直接富士山を見てその美しさや雄大さに触れないことには感動できないのではないでしょうか。ひと言で言ってしまえば「百聞は一見に如かず」なのですが、仏様は富士山と異なり、自分の方から会いに行くことはできません。自分の思いや力では見ることも聞くこともできないので、仏様が「いる」とか「いない」、「信じられる」とか「信じられない」という水掛け論に終始することになってしまうのでしょう。
曽我量深先生は仏様についてある方からの質問に対して次のようにお答えになられました。
「佛様とは」
1、仏様とはどんな人か
答、仏様は、われは南無阿弥陀仏と申すものであると名のっておいでになり ます。
2、その仏様はどこに居られるか
われを南無阿弥陀仏と念じ称へる人の直前においでになります。
3、そんならその仏を私達が念ずるに はどのような方法がありますか。
南無阿弥陀仏と、一念疑なく自力のはからひをすてヽ静なる心をもって、 仏願くはこの罪深き私をたすけましませと念ずるのであります。
これはだれでも、どこにゐても、いつでも、かなしい場合でも、うれしい 場合でもたやすく自由に仏を念ずることができるのです。
この念が現前する時いかなる煩悩妄念が襲ひ来っても内心の平和は絶對に やぶれません。是を真の救済と申します。 以 上
日本国 昭和31年1月21日
於 米国羅府 東本願寺 曽 我 量 深
1、仏様とはどんな人か
私たちの方から想像する仏様とは、自分にとって都合の良い、理想的である仏様です。つまり主観的な仏様であるので、一人ひとり異なった仏様を思い描くことになってしまいます。
しかし、曽我量深は返答では、「仏様は、われは南無阿弥陀仏と申すものであると名のっておいでになります」と。仏様とは「南無阿弥陀仏」という名告りであると言われます。私の方から仏様に近づいていくのではなく、反対に仏様の方から我々に先立ってお近づきになってくださっているのです。いろもかたちもないさとりの世界をなんとか私たちに知らせようと南無阿弥陀仏と名告られているのです。名告ってくださっているから私たちも「南無阿弥陀仏」と呼び返すことができるのです。
2、その仏様はどこに居られるか
われを南無阿弥陀仏と念じ称へる人の直前においでになります。
とこうあるように、仏様とはどこかに実体的に存在するのではなく、私たちが「南無阿弥陀仏」と呼び返すところに仏様を証明していくのです。証明していくというと何か私たちの方が仏様よりも立場が上になってしまっているように思われる方もあるかもしれませんが、そうではありません。どういうかたちで証明していくのかと申しますと、自らを明らかにしていくということです。だから念仏すると仏様のことがわかるようになってくるというよりは、自分自身が明らかになってくるのだと思います。つまり自らの闇が明らかとなるというかたちで如来の真実性が証されるのです。光と闇が相対的に存在するのではなく、光によっていよいよ闇が明らかとなる。闇を闇であると知らしめてくださった、そのはたらきこそ光すなわち南無阿弥陀仏なのでしょう。
一声の念仏に私と如来が成就する