2011年3月28日月曜日

聞かねばならぬ 亡き人の 厳粛なる無言の お導きを



ブログにもご報告いたしましたが、平成23119日、祖母が還浄しました。
これまで数々の人の死という現場に立ちあってきましたが、身内の死というものはこんなに悲しいものなのだということを恥ずかしながら改めて知らされました。

ある先生から聞いた「大切な人を亡くした時の悲しみの深さはいただいていたものの大きさだ」という言葉がとても胸に響きます。亡くしてみて、はじめていただいていたものの大きさに気づかされると共に祖母の存在の大きさを思い出されます。少し思い出話になってしまいますが、祖母はとにかく元気で存在感のある人でした。浄光寺に嫁いでから70年間、寺を守り支えてきました。毎朝、日の出とともに梵鐘を鳴らし、散歩に出かけるのが日課でした。そして天気さえ良ければ一日中境内で落ち葉ひろいや墓地の草むしりと、どれだけ浄光寺や私たちが助けてもらっていたことか。1月6日早朝、脳内出血で倒れ、救急車でICUへと運ばれ19日に亡くなる間、意識が戻ることはありませんでしたが、不思議なことに私の中で祖母の存在感は増すばかりでした。その間、何とか良くなってくれと病院に通いの毎日、ベッドに横たわる祖母を見ていると、悲しいのだけれでもただ悲しいだけではない、なんだか大変貴重な時間をいただいているような気がして、その場を大切にしなければという思いで一杯でした。今思うと病に伏しているという姿でもって全身で無言の説法を私にしてくださっていたのだと思います。先ほども言いましたが祖母はとにかく元気な人でした。だからご門徒の方に「おばあちゃん、お元気ですか」と尋ねられ、いつも「元気です」と答えるのが常でしたので、いつ元気な祖母が誇りでしたし、いつまでもそんな祖母でいてくれるであろうと思い込んでいました。いや、思い込みたかったのかもしれません。いつかくるはずの祖母の死というものから目を背けてきたのですが、同時に自らの死というものからもまた目を背けてきたということに気づかされました。

今回の、祖母の病、そして死。それから通夜、葬儀、49日までの毎日のお参りは悲しみの中にあるにもかかわらず何か温かく愛おしい日々を過ごさせていただきました。また悲しみの真っ只中にあって、そこに確かな世界を通して祖母との新しい関係が開かれたように思います。これからも亡き人のお導きに耳を傾けていきたいと思う。