2011年7月9日土曜日

ご先祖様は 眠っているのではない 眠っているのは私たち



今回はお盆ということもあり、ご先祖様を題材に書かせて頂きました。
亡き人に向かって「どうぞ安らかにお眠りください」というセリフをよく耳にしますが、そこには生きている者と亡くなった者との間に深い断絶というものを感じられます。そもそも私たちはそのような言葉を亡き人に言うことができる立場にあるのでしょうか。なにか生きている者の方だけが明るい世界にいて、亡くなった人にはこっちの世界の邪魔をしないように眠っていてくださいと、そのように聞こえてしまうのは私だけでしょうか。悪いことが続いたりした時に「先祖の祟りだ、だからお参りしなければ」ということを言う人がいますが、よく考えてみますとご先祖様が何のために子孫に悪さをする必要があるのでしょうか。むしろ子孫である私たちの幸せを願ってくださっているのがご先祖様なのではないでしょうか。

眼を開けたまま眠っている私たちに、眼を覚ませと呼びかけてくださっているのがご先祖様であり仏様なのです。しかし私たちはご先祖様だけでなく仏様も眠っている人にしてしまっているのです。ご先祖様はお墓で眠っているわけではありませんし、仏様はお寺で眠っているわけではないのです。眼を覚ませと私たちにはたらきかけてくださっているのがご先祖様であり仏様なのです。
「夢を持て」と言うが、そんな夢なんていくらもっても駄目だと思う。人生のために命を懸ける、人生に目覚める、ということが一番大事なことである。 
曽我量深先生の言葉』津曲淳三
夢の中で自分の思いという幻を追いかけ、夢の中で人生を虚しく過ごしているのが私たちはまさか自分が夢の中を生きているとは夢にも思っていないのではないでしょうか。朝起きて眼を覚ました時にはじめて眠っていたということがわかるように、「私の人生」という夢から覚めないと、今まで眠っていたということも、夢を見ていたということも気がつかないのです。

人間の心が求めるのはアヘン。仏様はアヘンから醒めることを求める。 
安田理深

そうは言っても私たちは夢から覚めたいとも思っていませんし、むしろ夢を追いかけていたいですし、ある意味、思い通りにはならないという事実から眼を背けて夢を追いかけるほうが楽なのかもしれません。
しかし本当は思い通りにならないということは、夢から覚めるチャンスなのです。北海道のお寺の坊守で癌で若くして亡くなられた鈴木章子さんは
私はこの癌は、「章子、目覚めよ!何をしている。章子、目覚めよ!」とみ仏様が私のほっぺたにビンタしてくれた音だと聞かせていただいております。 
『還るところはみなひとつ~癌の身を生きる~』鈴木章子
癌のおかげで目覚めることができたとまで言われています。私たちは思い通りにいっているときにはなかなかこのような世界に目覚めることはできませんが、大切な人の死や自らの死を意識するような病に出会った時、その悲しみや苦しみをくぐり抜けて大切なものに出遇わせていただくのです。悲しみや苦しみに向き合わないと「目覚めよ」というご先祖様や仏様の声は聞こえてこないのです。
目覚めてはじめて「無眼人、無耳人」の私でありました、ということに気付かされていくのです。その時、思い通りにならなかったことに意味が見い出され思い通りにならなかったこともすべて受け取っていくことができるのだと思います。
せっかくのお盆なのですから、自分にとってご先祖様とは何かもう一度問い直し、ご先祖様からのメッセージに耳を傾けたいものです。