2011年10月13日木曜日

助かる身になって 救われるのではない この助からざる者を 救うてくださるのが 仏さまです


自力というは、わがみをたのみ、わがこころをたのむ、わがちからをはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり
   『一念多念文意』親鸞聖人(真宗聖典541頁)
自力とは、わかりやすくいうと、自分を買いかぶっていることです。
そんな私たちは、念仏すれば救われると聞けば、がんばって念仏しようとする。いやそんな自力の念仏では駄目なんだ。他力の念仏を称えなければ救われませんよと聞けば、がんばって他力の念仏を称えられる者になっていこうとする。どこまででも努力していこうとするのが私たちです。

だから他力のお念仏の教えを聞いていても、聞いたことによって少しでもましな人間になって、救われていこうとするのです。お念仏申すことによって、少しでも仏さまのお眼鏡に叶うような者になったつもりでいるのです。さらに念仏申す自分は、念仏申さない者よりも善い者になったつもりでいるということもおこってきます。

そういう自負心や善人意識を蓮如上人は

仏法には、まいらせ心わろし。是をして御心に叶わんと思うなり。仏法のうえは、何事も、報謝と存ずべきなり

『蓮如上人御一代記聞書』蓮如上人(真宗聖典879頁)

「まいらせ心」と表現されました。自分は念仏しているのだという善人意識、自分はこれだけのことをしたという自負心のことです。自分はこれだけ親鸞聖人の教えを聞いて念仏してきたのだから、きっといつか救われるはずだと、見返りとしての救いを要求する。自分は救われる資格がある者になったつもりになり、確証はないけれども、そのうちに救われるはずだと信じ込んでしまっているのです。

他力の教えを聞いている者は、うっかりすると自分はもう自力をはげむ者でなくなったのだと思い込込んでしまいますが、そうではなくて他力の教え聞くことによって自力の生き方しかできない救われ難い身を生きているのだなあということに気づかせていただくのです。 


他力他力とおもうていたが思う心がみな自力
ああ 恥ずかしい南無阿弥陀仏
森ひな(石川県小松市) 
  
仏智うたがふ罪ふかし 
この心おもひしるならば 
くゆる心をむねとして 
仏智の不思議をたのむべし
   

『正像末和讃』親鸞聖人(真宗聖典507頁)

自力や他力やと言っても、それらは自らの分別でしかないわけです。他力他力と言って自力から離れた者であると思っていたのですが、実は仏智を疑う生き方をしていたのはこの私であったのです。私たちにはどこまでいっても自力しかない、恥ずべき者なのです。「ああ 恥ずかしい」と回心懺悔するところに善人から悪人への大きな転換が起こるわけです。悪人とは助からざる者であると自覚した人のことです。その助からざる者を救うてくださるのが仏さまなのです。

私たちは救いというと、今抱える苦悩や悲しみがなくなることを救いと考え、助かった状態の自分を思い描き、それを握りしめながらなんとか助かろうともがき苦しむのですが、皮肉にも自分で思い描いた救いというものに逆に苦しめられているわけです。実は助かる身になることが救いなのではなく、助からざる我が身に頷くところに、私が追い求める救いという呪縛から解放される。その時には既に救いが必要なくなっているわけです。それは苦悩や悲しみがなくなったということではありません。苦悩や悲しみはそのままに、苦悩や悲しみ、そして疑いを縁に開かれる「くゆる心をむね」としながらお念仏に帰っていくのです。苦悩や悲しみを抱えながら生きていくことができる道がそこに開かれてくるのです。

不安は私のいのちやもん 不安とられたら生きようがないわ 

山崎 ヨシ(石川県白山市)