2007年11月25日日曜日

生きることに 満足せずして 何に満足するのか

人は常に満足してない。だからあれこれ 自分の思い(煩悩)を満足させるために常に何かを手に入れようと躍起になっている。地位、名誉、金など…あたかもそれらを手に入れることが人生の目的であるかのように。しかしどれだけ手に入れたとしても決して満足できない。一時は満足するかもしれない、しかしそれでもう終わりということは決してない。 それはちょうど食事をして腹を満たしたとしても、時間が経つと腹が減ってくるように。 しかもさらに欲求が大きくなっていくので、これまでのものでは満足できなくなってくる。それでもっと上へとまた追い求めていく、それの繰り返しできりがない。

それでは、なぜ手に入れても手に入れても満足できないのでしょうか?
仏教では煩悩のことを漏ともいいます。割れて底にひびがはいっ たコップにいくら水を注いで満たそうとしても、いつの間にか少しづつ漏れ出していき、いつまでも一杯にならないように、私たちがどれだけがんばって満たそうとしても漏れていくので決して満たされることがない。その自分の努力で満たそうとする行いを有漏行といいます。

時には努力が実って満足することがある。コップの例えで言う と、たとえひびがはいっていても、そこから漏れる量以上の水を勢いよく注げば一時的に満たされます。それを有漏無漏雑起といいます。しかしその水の勢い(努力)はいつまでも続かないので、勢いが弱まるにつれ水の量も減っていく。なので結局は満たされません。

天親菩薩が書かれた『浄土論』の中に「観仏本願力 遇無空者  能令速満足 功徳大宝海」(仏の本願力を観ずるに、遇うて空しく過ぐる者なし、能く速やかに功徳の大宝海を満足せしむ)とあり、また親鸞聖人は、そのこと を和讃に「本願力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき 功徳の寳海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし」とも詠まれています。本願力を信じるならば、足りない足りないと満足できずに空しく過ごすことがないのです。なぜならば南無阿弥陀仏という名号の功徳がその身を満たしているから。

コップが功徳の寳海とも言うべき水に浸されると、たとえひびが 入っていてもコップは満たされる。ひびから漏れている水、すなわち煩悩がなくなっていないのにである。コップの外側にある功徳の水でコップの内側も満たされた状態になる。コップの内側と外側の区別がなくなってしまうのです。それが「 煩悩の濁水へだてなし」という状態なのでしょう。こうなってしまえば、漏れがあっても無いのと同じです。その状態を純粋無漏相続といいます。

私たちは生きている限り煩悩はなくなりません。つまり常に有漏の状態です。しかし本願力を信じ南無阿弥陀仏という仏のいのちで満たされたならば、たとえ煩悩が無くならなくても、それは無くなったのと同じ意味が生まれてくるのです。しかも私のコップだけが仏のいのちがつかっているのではなく、大小様々な大きさのコップも大きないのちに浸され満たされているのです。そこにはあなたもわたしもありません。ひとつのいのちで満たされているのです。

他から水というエネルギーを奪ってきては満たそうとしているが私たちです。私を満たそうとすれば、他人のエネルギーが減ってしまう。しかし仏のいのちに目覚めたならば私だけでなく他人も同じいのち、あなたもわたしもない同じいのちで満たされているので、もうエネルギーを奪い合う必要がないのです。 共にそして速やかに満足する世界なのです。 もう私というコップにしがみついて満足させようと努力し続ける必要がないのです。阿弥陀仏という本当のいのちに帰る、南無と頭が下がったならあとはお任せです。満足するからどんな時も安心してお任せしていくことができるのです。

今生きていることに満足せずに他を求めるということは現状の自分を否定しているということになります。逆を言えば生きることに満足すれば今の自分を取り戻すことができます。本当の自分自身になっていく、人が人になり人として満足して生きていけるということです。「生まれてきてよかったなぁ〜」と心から思える人生を歩んでいきたいものです。

2007年4月14日土曜日

念仏する人は 勝ち負けにとらわれない 世界を生きる

近年、格差社会が問題視されるようになってきました。「勝ち組」「負け組」なんて言葉もはやっていますね。しかしここでいう勝ち負けはほとんど金銭上での話です。IT長者がもてはやされ勝ち組の象徴とされています。どうせなら負け組より勝ち組のほうがいいですよね?どうでしょうか?勝ち組になることが本当の幸せでしょうか?


われわれ凡夫が幸せと思っている対象は、お金であったり、名誉であったり、旦那様であったり、子供であったりする。
 これらは皆持ち物である。一生生きていく上で、年齢と共に持ち替えてゆく持ち物であり、着替えてゆく衣装であって、肝心な持ち主そのものが忘れられていることに気づく。
 持ち物は無常なのだから、いつかいつかうつろい消えてゆくことは当然の道理。生が死に、愛が憎悪に、若さが老醜に、素直な子供が反抗する子供に、山と積まれた財産が借金へとかわるのは無常の世の当然の姿。
 そういうたかたのようなはかない持ち物に変わらぬ幸せを求めて追っかけていること自体が、初めから間違っている。ー中略ー
  要は持ち主の生き様である。持ち主である私自身の生きる姿勢が変わればよいのである。どう変わったらよいか。ひとことでいうと、「外に求めない」というこ と。地理的にいってどこかに、時間的にいって明日、来年、来世、という別のときに求めず、つねに、今、ここに姿勢を正して坐る、ということである。

「美しき人に」禅に生きる尼僧の言葉


勝ち組の象徴 だったホリエモン。彼はライブドアという会社でお金や地位を得ただけでなく、マスコミをはじめ政界までもがチヤホヤし名誉まで手にいれました。しかし皆さんもご存じのようにライブドアの粉飾決済疑惑によってすべてを失いました。これが上記の引用文でいう無常の世の当然の姿ですね。今日、勝ち組だった人も、 明日どうなるかわからないのです。しかし私たちは、お金や財産、肩書きや地位などに執着して、理想の「我」を目指し、またそれにしがみつきながら生きています。勝ち負けばかりにとらわれているところには本当の幸せ(本当の自己との出会い)なんかないのです。そこにあるのはお金や地位や名誉の鎧で身を固めた「我」しかありません。しかし、真のことば南無阿弥陀仏によって、それが本当の「我」(煩悩にまみれてこの険しい娑婆世界(勝ち負けの世界)でもがき苦しんでいる)の姿であると気づきかされるとき、その鎧がとれて、本当の「我」との出会いがそこにうまれるのではないでしょうか。それがありのままの本当の「我」です。煩悩にまみれてこの険しい娑婆世界でもがき苦しんでいる「我」ではありますが、そのままの「我」であって救われていく世界が、お念仏の世界なのです。

手を合わせ こころのふるさとに 里帰り

この掲示は昨年のお盆時期に書いたものです。
この時期になるとテレビで田舎へ帰省するためのものすごい渋滞を目にします。お盆休みを利用してお墓参りをする人も多いかと思います。うちのお墓のも遠方から沢山お参りにこられていつも感心させられています。しかし残念ながら恐らくその多くの人はお墓の前で自分のご先祖様の供養のためにお参りをされているのが実状なのではないでしょうか?浄土真宗の場合、先祖供養のためにお参りするのではありません。

お墓参りとはご先祖の供養のためではなく、 亡き人を偲びつつ 、それによっていただいたお念仏という機縁を大切にしていく場であり、自分自身を見つめ直す場であります。
ご先祖さまを縁とし、手を合わさせていただいておる。そのナムアミダブツという念仏するところに浄土というこころのふるさとに帰らせていただく。それが本当の意味での里帰りではないかと思います。

有り難うと 念仏する 在り難き私

今、ここに在るはずのない私が生きている。
南無阿弥陀仏…

2007年3月20日火曜日

花は花のまま 我は我のまま そのまんま

●「花は花のまま」
今年は暖冬のせいでほとんど雪が降らなかったせいもあり、あっという間に春を迎えてしまいました。春といえば桜をはじめ多くの花が咲き、私たちを楽しませてくれます。その花々は梅は梅、桜は桜、チューリップはチューリップというように梅が桜になったりしません。あたりまえですね。しかし人間は…

●「我は我のまま」
我々人間の場合も同じです。私はあなたでもなく、あなたは私でもなく、私は他の誰でもない私です。私は私のまま、あなたはあなたのままです。
人は救いを求めるとき、「このままの自分ではいけない」「このままでは救われるはずがない」と自分を変えること、「変わらなくては!」と考えますが、それぞれのひとがすでにそのままで尊いのです。SMAPの「世界に一つだけの花」という曲に「もともと特別なオンリーワン」というフレーズがそのことを教えてくれているような気がします。

自分はできた人間ではありません。毎日、あれこれ自分勝手なことをいって、生活しているのも私。ひとを妬み恨んだりしてしまうのも私。このように煩悩にまみれた生活を毎日毎日送っているのが私、おそらく一生治らないでしょう。

●「そのまんま」
最近、宮崎県知事、そのまんま東こと東国原英夫氏がテレビを賑わしていますね。その「そのまんま東」の「そのまんま」です。田中さんでしたら「そのまんま田中」佐藤さんなら「そのまんま佐藤」なのです。もっといえば、その「東」「田中」「佐藤」といった名前は他人と区別するためにつけられたものですから、名前を省いて「そのまんま」だけでいいのです。名前を超えたもっと本質的な自分、そのまんまの自分「我」です。
「我」なくして「我なし」です。

そのまんま、ありのままの自分、本来、救われるはずのない私が救われていく世界が、親鸞聖人の他力の教えなのです。私が私のまま救われていける世界。あなたがあなたのまま救われていける世界。そしてお互いが認め合える世界。。。合掌

2007年2月6日火曜日

まことのことばによって見出される本当の私

突然ですが、皆さんは自分自身のことを知っていますか?こんなことを言うと自分のことだから自分が一番知っているといわれそうですが。。。しかし多くの人は自分とは大体こんなもんだろうと曖昧にしているのではないでしょうか。知っているようで、実はよくわからないのが自分なのかもしれません。

普段私たちのいう自分とは、他人の言葉によってこんな人間だと作り上げている自分なのです。他人にかわいいと言われれば、その気になってみたり、他の人と比較して背が 高いとか低いとか、勉強ができるとかできないとか、性格が良い悪いとか挙げたらきりがありません。このように自分で思い込んでいる自分というのは、ほとんどが他人との比較によって見出されているのです。ですから縁次第で自分の解釈が変わってしまいます。縁次第でいままで思ってもみなかった自分に出会うこ ともあるのです。だからそんなところには本当の自分などありません。

それでは自分とは一体何者なんでしょうか。よく考えてみると自分といっても自分の意志で生まれてきたわけでもないですし、いつ死んでいくのかさえもわからないのです。 自分の人生だから好き勝手に生きて何が悪いとよくいいますけれども、自分の人生なのになにもわかっていないのです。暁烏敏先生は「宗教の第一歩は、実にこの自己を知ると云うことである。真に自己の何者たるかを自覚するところに、真の信仰が生まれてくるのである」といわれ、また清沢満之先生は「自己とは何ぞや。これ人生の根本的問題なり」といわれるように自分を知るということなしに本当の意味での人生はありません。
 
本当の自分に 気づかせてくれるのがまことのことば(南無阿弥陀仏)なのです。真実なものに触れることによって、私とはそれと全く正反対な存在であるということが自覚さ れるのであります。それは自分自身についての深い目覚め(機の深信)です。この深い目覚めがあるところに自分の人生にも本当の意義が生まれてくるのではな いでしょうか。