自力(=はからい)というと自らの力で困難に立ち向かったり、厳しい修行をしたりと、他力の念仏をいただく者には関係のないようなことのように思われますが、お念仏もまた自力のこころでいただいてしまっているのが私たちなのではないでしょうか。
自力のこころをひるがえして、他力をたのみまつれば、真実報土の往生をとぐるなり
『歎異抄』第三条
とこう言われれば「自力のこころはいけない、他力をたのまなければならない」と自力のこころを翻そうと、また他力をたのもうと努力してしまうのが私たちです。どこまでも我がはからいの上に念仏していくのです。他力といいながらも自力根性を捨てることができないのが私たちの正体なのではないでしょうか。
小松の妙好人森ひなさんは次のように詠われます。
他力他力とおもうていたが
思う心がみな自力
ああ 恥ずかしい
南無阿弥陀仏
森ひな
「他力」、「他力」と他力に固執しているそのこころこそが自力であったんだと。私たちの思いで自力と他力を使い分けることなどできないのでしょう。私たちの思いの延長には自力しかないわけです。
そのような自力根性でいくら「念仏で救われた、すべておまかせや」とありがたってみても、それはただその時の心境に過ぎません。心境の中の救いであるからして、ひとたび不都合なことが起これば消え去ってしまうような不定な救いです。
続けて「ああ恥ずかしい」とありますが、他力他力とおもうていたが、そう思う心がみな自力であったのだと気づかせてくれるおはたらきに出遇うことができたからこそでてきた言葉なのだと思います。お恥ずかしい自分に気づかせてもらえたからこそ「南無阿弥陀仏」がでてきてくださるのだと。
今回の掲示では、念仏して救われたと思ったり、救われないと思ったりと心が定まらないようではいけないとそのようなことを言いいたいわけではありません。「念仏で救われた」「念仏で救われない」とそのような不定のこころを捨てて救われるのではなく、どこまでも自力から抜け出すことができないそのような迷いを抱える身が明らかとなった。そんな凡夫のはからいでしか念仏できない身抱えておる、そんな私たちだからこそ救わんと立ち上がってくださる、それが南無阿弥陀仏のおはたらきなのす。
自力のこころを自力だと知らされる
他力のこころも自力だと知らされる
そこに自力のこころが翻されるのでしょう。