2009年11月30日月曜日

自由、自由と思っていたら そのこころが不自由であった

人はこの世に生を受け、物心がついたころから自由を追い求めて止まない存在なのかもしれません。しかし自由を求めながら、その自由というものがよくわかっていないということはないでしょうか。私たちはよく「自由」や「平和」といった言葉を口にしますが、自由とはどういう世界を自由というのか、平和とはどういう世界を平和というのかわからないで、追い求めているような気がします。「自由平等」「世界平和」などと言いながら、目指す世界がはっきりしていないのです。お互いに束縛し合わず、お互いに干渉し合わないで自由に生きていくことができる世界が自由な世界なのでしょうか。戦争や争い事がなければ 平和なのでしょうか。


動物は生まれてすぐ立ち上がり、自らの力で生きていこうとしますが、人間は生まれた瞬間から、人の手を借りなければ生きていくことができません。両親をはじめ多くの人のお世話になりながら成長するのでしょう。それなのに親からの自由、学校からの自由、社会からの自由というように、関係を絶つことによって自由を手に入れようと藻がき苦しむのです。関係の中でしか生きられないのに、関係を絶つことによって自由を手に入れようとすること自体無理があり、ものすごくエネルギーを消耗してしまいます。だから、親や学校や社会に反抗していた思春期を過ぎると今度は逆に社会人として会社の、そして世間の歯車の一部になることで安心を得るようになるのです。

また結婚をし家庭をもつという行為もより人間関係を複雑なものにし、自由が奪われてしまうにもかかわらず、それを求めようとします。人は自由を求めていますが、ある意味仕事や家族や社会に拘束されていたほうが楽なのかもしれません。「明日から自分の好きなように自由に生きてください」と言われても、何をして生きていけばいいのか分からないのが正直なところではないでしょうか。

自由を求めていたけど、いざ自由になってみると今度は自由であることが不安になってくるのです。ということは自由を手に入れた瞬間、もう自由でなくなってしまっているということになります。束縛されていても落ち着かない。また自由でも落ち着かない、そんな生き方をしているのではないでしょうか。

私たちが求める自由とは、今自分を拘束し束縛している障害から解放された状態になることであって、目先の自由です。さらに自分さえ自由になれるのであれば、他人の自由を奪ってでも手に入れようとする身勝手な自由なのです。これらは本当の自由とはほど遠いもののように思います。

私たちは現在の不自由という思いに囚われ過ぎて、なんとかしようと苦しんでいるのですが、不自由という結果ばかり見て、なぜ今不自由に感じているのか、なぜ苦しいのかその原因を見ようとはしないのです。さらに不自由の原因を「外」に求め、外へ外へとなんとかしようとしています。視点を「外」から「内」に転ずるということが起こらない限り、本当の自分の姿を見るこ とができません。仏の智慧に照らされてはじめて不自由な姿というものがはっきりしてきます。

その時、自由に執着する自分の思いこそ実は苦しみの原因 だったことに気付かされるのです。自分の思いがまさに不自由だったのです。そのことに気づくことができた時、その不自由な思いから自由になることができるのではないでしょうか。それは自由な私に生まれ変わるのではなく、不自由な私を私として生きていくことができるということです。私たちは、自由と不自由を対義的に理解していますが、本当の自由とは不自由をも包み込みこむものでなければなりません。

超世の悲願ききしより
 われらは生死の凡夫かは
 有漏の穢身はかわらねど
 こころは浄土にあそぶなり
 
『帖外和讃』

本当の自由とは自由であであろうがなかろうが、うまくいっていようがいなかろうがこれも自分なんだと受け止めていくことができるということではないでしょうか。これはもちろんおまかせだからどうしようもないと諦めているのではありませんし、どうなってもいいやとやけくそになっているわけでもありません。
人生を投げ出さず自分のこととして受け止め、能動的に生きる道、それを「無碍の一道」(『歎異抄第』第七章)というのです。

どんな私であってもいいのです。そのままで意味があたえられている、存在の自由とでも言ったらいいのでしょうか。自己の自由が見出された時、同時に他者の自由も見出されることでしょう。自由だ、不自由と身勝手なことを言い続けている私たちですが、どんな自分であったとしても、そんな私をも見捨てないで支えてくれている、そんな私だからこそ仏様は常に寄り添ってくださっています。実は見失っているのは私たちの方なのでした。仏様は見失い続けている私たちに呼びかけてくださっています。その呼びかけに耳を傾けるということが、自己を問うというかたちで、念仏者として私たちを歩ませるのでしょう。

自己を問うということがおこる時、自分の根底から問い返されているということに気づかされ、問われていた私というものが明らかになるのです。


今なぜ不自由と感じているのか考えてみませんか。