2011年9月12日月曜日

一寸先だけが闇ではない 一寸先も闇の身であると知るとき 一寸先も明るくなる



震災直後、想定外という言葉をよく耳にしました。確かに今回の津波や原発事故は想定外のものだったでしょう。実際に言葉を失うような想定外の甚大なる被害がもたらされました。しかし震災から何ヶ月か経過した今になって思うに、震災直後は想定外という言葉を使って受け入れがたき現実を必死に受け止めようしていたのではないかと思うのです。また想定外という言葉で無意識的に「仕方がなかったのだ」と言い訳をすることによって必死に身を守ろうとしていたのではないでしょうか。

冷静に考えてみると、世の中は想定外だらけです。想定外に備えて色々準備をしているけれども、明日の日は分かりません。さらにその準備ですら想定内のものです。その想定が破られたときのことを想定外というのですから、私たちは想定外に対して完璧な備えをすることは不可能です。必死に抵抗しますが、一瞬先は闇です。何が起こるか分かりません。だから恐ろしい。だから私たちは大抵、今日よりももっと良い明日を思い描きながら生きています。または、そこまで望まないがせめて今日と変わらぬ明日であることを望みます。しかしそれらの思いこそが闇であると仏教は教えてくれます。一瞬先のみが闇なのではなく、今も闇に身をおいているのだと。

仏教では「無常」ということを強調しますが、私はこれまで無常と聞くと『平家物語』に「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり・・・」とあるように、何か物悲しく、今あるものが崩れ去っていくような、とにかくマイナスイメージしかありませんでした。今健康であるけれども、健康ということはいつか病になるということです。また今若いということは、これから老いていくことです。生まれたということはいずれ死んでいかなければならないということです。しかし無常の道理に頭で頷けたつもりでも、プラスイメージになるものでは決してありません。むしろ「これも無常の道理だから仕方がない」というような後ろ向きな受け止め方にしかならないことの方が多いように思います。

どこかに無我、無常について「固定しないでどんな環境にも対応していける。自分を固定しない」と書かれているのを読んで無常のイメージが一変しました。どんな自分であっても、どんな環境であってもいいのだと。本当に無常を知るということは実は、とても自由で明るいことだったのです。この先どんなことがあったとしても事実を事実としてしっかりと受け止め、積極的に生きていくことができるのです。想定外という言葉で言い訳するのではなく、事実を受け取とめたところから立ち上がっていけるのですね。

無常だから赤ん坊が大きくなり、
    つぼみが花になるんです。

相田みつを


無常だからこそ震災から立ち上がっていくこともできる。