2012年4月9日月曜日

ほとけの花開くとき 閉じたこころ 開かる


わがこころ 貝のごとくに ふと閉じぬ
このかなしみを ひらくもの ただねんぶつの ほかはなく
ただねんぶつの ほかはなく  
木村無相
このような詩を越前の妙好人である木村無相さんは残されています。
私たちも自分の思い通りにならなかった時や、自分にとって都合の悪いことがおこった時に自分の殻に閉じこもるというようなことがありますが、無相さんも「ふと閉じぬ」といわれているように、そういう縁があれば、自然と閉じてしまうのが私たちです。しかし自分の意志で開けたり閉じたりできるものではありません。無相さんはお念仏の智慧によって見えてきたわがこころが閉じた貝のようだとおっしゃるのです。
そもそも私たちは貝の如くに頑なに心を閉ざしている、そのことにすら気づいていないのではないでしょうか。思い通りにならないから愚痴がでるように思いがちですが、たとえ思い通りになったとしても、そのことに本当に満足するということはありません。その満足とは、満足と言っても自己満足ですから、すぐに愚痴がでる。それは自己満足という殻に閉じこもっているに過ぎないからなのでしょう。このように思い通りになってもならなくても自分の思いの中に閉じこもった生き方をしているのが私たちの生き方であり、そのような状態を『大無量寿経』では「心塞意閉」ということばで言い当ててくださっています。またその閉じた心が開かれた状態を「心得開明」「耳目開明」といいます。
無相さんは、その閉じた心を開いてくださるはたらき、それが念仏だとおっしゃいます。
南無阿弥陀仏とはその閉じた狭いくて暗い闇の世界から広くて明るい世界へと出よという呼びかけです。しかしその呼びかけに素直に頷けないのがわたしたちです。厄介なことに私たちは外に明るい世界があることも知らないし、あると知らされてもそんなところに出たいとも思ってないのです。
   大聖易往とときたまふ 
   浄土をうたがふ衆生をば    
   無眼人とぞなづけたる     
   無耳人とぞのべたまふ      

   『浄土和讃』
その呼びかけを聞く耳をもっていないし、浄土という明るい世界をみる眼(=閉じた自分の思いをみる眼)も持ちあわせていないのが私たちです。そんなものをみたくも聞きたくもない、念仏すれば浄土に往生できると聞かされても、往生したいと思わない。そんなことより自分の世界の中で自己満足に浸っていたい。苦しいこともあるけれども、楽しいこともあるじゃないか。今は苦しくても、その苦しみは必ず報われるはずだ、これでいいじゃないか。しかし本当にそのような生き方でいいのか。
無相さんは、「このかなしみを ひらくもの ただねんぶつの ほかはなく」とおっしゃる。そんな生き方が悲しみとなってくるのです。思い通りにならないから悲しいのではなく、自分自身の在り方を悲しんでおられるのです。状況の悲しみではなく、存在の悲しみといえます。閉じた貝を開くために念仏しておられるのではなく、念仏するところに悲しみの身が明らかになる、そこに自ずと貝が開かれるのです。閉じた心を念仏申す縁としながら開かれて続けていく、それが念仏者の生き方なのだと思います。
愚痴いっぱいの身そのままに、愚痴がお念仏へと転ずる。