2012年7月10日火曜日

念佛して有り難くなるのではなく 念佛がでてくださることが有り難い



われわれは幸福になる準備ばかりいつまでもしているので、現に幸福になれなくても致し方ないわけである
フランスの哲学者パスカルの言葉ですが、年老いて死ぬまで幸せの為の準備に追われ続け、現在を見失うような生き方をしているのが私たちであるということを教えられます。
おもえば私たちは幼い時から幼稚園に入る為の準備、小学校に入る為、中学、高校、そして大学に入る為の受験勉強・・・就職活動・・・結婚の為の婚活・・・老後の為の年金や貯金・・・そして最後には自分のお葬式の為の準備・・・準備から準備へと追われ続けています。
なぜ準備するのかというと、幸せになるためなのでしょう。無邪気に今を生きている子どもに私たち親たちがそう教えるのですね。子どもの幸せを願う親が先回りして子どもに準備させるわけです。
しかし、目先の幸せを追い求め手に入れることで一時的には満足するかもしれませんが、私たちの幸福はすぐに当たり前となってしまう。そしてまた幸せの準備にとりかかる。これの繰り返しです。私たちが手に入れる幸福とは本当の幸福ではなく、ただの幸福感なのです。

私たちは、うすうす気がついているのではないでしょうか。今の生き方の延長には本当の幸せが訪れないということを。しかしそれでは困るので、そのことから目を逸らして幸せの準備に明け暮れる、それが私たちなのです。
このように準備に追われ続けている私たちですから、念仏すれば救われると聞いても、念仏を未来の幸せの為の手段や準備としてしか受け取れないのだと思います。

お念仏は準備(因)ではなく果です。お念仏がでてくださることが有り難いのです。そして果から因(念仏の出処)へと帰っていくのです。私の口からでてくださる念仏は、南無阿弥陀仏にまでなった仏の願いです。今私のところに仏の願いが成就した証でもあります。その願いを受け取った姿、それが手を合わせてお念仏する姿なのです。
受け取ったものがあるから出処(因)に帰ることが出来るのです。
例えば、誰かが「ありがとう」と言った時、先ずその言葉が私に向けられた言葉であると分からないことには受け取ることもできません。そしてその言葉は私のために向けられた「ありがとう」であると分かった時、はじめて言葉を受け取ることができます。その言葉を受け取ったということは相手の感謝のこころを受け取ったということです。だから私たちが「ありがとう」という言葉を聞く時、「ありがとう」という言葉の出処である感謝のこころを受け取っているのです。また感謝の気持ちが「ありがとう」という言葉になったから受け取ることができともいえます。
同じように「南無阿弥陀仏」と念仏申すということは南無阿弥陀仏の出処である仏の願いを受け取ったということです。願いを受け取り願いの出処へと帰る、それを繰り返す。今の念仏が次の念仏を押し出してくる。なぜならその願いがあまりに深いから。なぜ深いのか。それは私の迷いが深いから。その深い迷いを抱えたものを救わんためにその迷いの深さに応えるように発された深き願い。
感謝してもし尽くせぬ弥陀の御恩の南無阿弥陀仏。