2010年4月17日土曜日

呆けたら終りといいながら 生存呆けしている私たち

現在、「呆け」という言葉は差別用語にあたり公の場ではほとんど使用されなくなりました。もう使用されないから死語になってしまったかといいますと日常会話などではまだまだ口にすることがあるのではないでしょうか。特にお年寄りが「ボケたらワッシャもう終わりじゃ」と口にすることをよく耳にします。

またこれまで「呆け」→「痴呆症」→「認知症」と言い方だけを変えてきましたが、仮に「呆け」という言葉を差別的に使用していたとするならば、言葉の上っ面だけを変えたとしても、私たちに差別心がある限り、いくら表現を変えても差別はなくなりません。今回の掲示にあえて差別用語である「呆け」という言葉を使用したのは、もちろん差別心によるものではありません。また曖昧かつより難しい表現を使用することによって、私たちが持つ差別心というものを覆い隠し、ますます腫れ物に触るようになってきているような気がしてなりません。

「呆け」という表現の使用を推進しているわけではありませんが、私は「呆け」という言葉にはおおらかさを感じます。「ボケたら終り」とはいいますが、もし呆けたとしても許せるようなおおらかさがあるような気がするのです。「認知症」と言ったときは「原因は何々で~」「こういう薬があって」「ならないためには~で」というように何か力が入っているというか、病気だからなんとかしなくてはいけないということが優先されて、その言葉の陰では認知症の人を否定してしまっているということはないでしょうか。

「呆け」のほうは流に逆らわずより自然な表現のように思います。最近テレビCM等で「薄毛はお医者さんの薬で治ります」とよく目にしますが、これまで「ハゲ」「薄毛」という自然現象で済んでいたというか諦めていた(?)のに本当に治るのか知らないが薬で治せるという。薄毛をまるで病気のように扱い、治療すべきことであると。これはハゲではだめなんですよーということを暗に示唆しその人を否定している感が否めません。何でも病気扱いにし、それを克服していこうと自然から逆らい、その陰でそういう症状の人をいつの間にか否定し差別し排除してしまっているのが現代なのかもしれません。

話が脱線しぱなっしですが、今回の掲示でなにが言いたかったといいますと、呆けた人は決して呆けていないのだ。呆けているのは私たちの方だということです。これはほとけのいのちから私たちの在り方を見るとそのように見えるのです。通常の呆けというのは理性や知性が呆けたことをいい、理性を基準に呆けたか呆けてないかを判断しているのですが、今はいのちを基準に考えてみると実は呆けているのは私たちの方ではないかということを言いたいわけです。高齢になり呆けるといっても、理性が呆けるだけで、人間存在そのものが呆けるわけではないのです。ある先生によると、呆けると3歳以前の幼児に帰るそうです。物心がつき自我とともに芽生えた知性や理性が呆けるだけであって、その人のいのち、その人そのものが呆けたのではないということです。ありのままを生きているだけであって、呆けて自らを見失っているわけではないであり、いのちの願いのまま生きているという自然の相を私たちに見せてくださっているのです。反対に私たちはどうかといいますと、思い通りにならないと自分を裁き、他を裁きなかなかありのままを受け止めいきていくことができません。本当のいのちの姿というものが理性や知性に覆い隠されてしまい、ほんとうのいのちの相が見えなくなっているのではないでしょうか。このように本当のいのちの相を見失ってただ自分の思いに流されながらいきているものを生存呆けというだと思います。

理性や知性は呆けてもいのちは呆けません。理性や知性でいのちを暈しているのが私たちなのです。