2011年6月7日火曜日

如来の呼声が響流し 今、私に南無阿弥陀仏と響く



大無量寿経というお経に「響流十方」という御言葉がありますが、「響」と「流」で「こうる」と読みます。余談になりますが、私はこの「響流十方」という言葉が好きで、昨年生まれた息子の名前に一文字いただいたぐらいです。仏様の私たちを救わんと呼びかけるその呼声はただ響いているだけではなく、響き流れていると。美しい言葉だと思いませんか。ただどこか遠くで響いているだけではなく、私たちのところまで流れ届けられているのです。私がいて、遠くの仏様の声が流れてくるのを聞くというのではない。仏様の呼声は遠い昔の話ではなく、今お念仏する私たちがその流の真っ只中にいるということです。だから「響流」という言葉に時間的な広がりを感じさせられます。また「十方」は空間的な広がりを意味するのでしょうから、「響流十方」ということは仏様の声が届かないところはないということでしょう。どんな時代の人であっても、どこにいる人であっても、男女貴賎、老少善悪を問わずすべての人のところまで届けられているのです。

今、私が南無阿弥陀仏とお念仏申すということは、その響き声が私のところにまで届けられたからこそ、念仏申さんとおもいたつこころがおこってきたということです。それは私がおこしたのではない。如来におこさしめられたのです。私がお念仏申すということに先立って、仏様が念仏申せよと呼びかけてくださっていたから、念仏申さんとおもいたつこころがおこるということがあるのです。

「卒啄同時」という言葉があります。卵から雛がかえる瞬間、内側から雛が殻を突付くのを「卒」、外から親鳥が突付くのを「啄」といいます。このタイミングが合わないと雛は死んでしまうそうです。仏様の呼声を聞くということと私がお念仏すということは同時です。如来の響きが私に南無阿弥陀仏となって響いてくるのです。そしてその卵の殻が破れてみたら、そこには大きな世界が開かれていたのです。響流の真っ只中にいたのです。

改めて考えてみますと、お念仏の歴史とは響流の歴史といえるのではないでしょうか。響きの流の中で釈尊、七高僧、親鸞聖人、そして名も無き念仏者たちがその響きの流の中に身を置き念仏を響かせてきたからこそ、今私たちのとこにまでお念仏の教えが届けられてきている。そして私たちも響きの流の中でお念仏を響かせながら、流れの一員として流れ続けていくのです。

前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪え、連続無窮にして、願わくは休止せざらしめんと欲す。無辺の生死海を尽くさんがためのゆえなり 
『安楽集』道綽禅師