2011年8月9日火曜日

ミーミーと 降り注ぐ いのちの叫び声



今年は地震の影響なのでしょうか、あまり蝉の声が聞かれないと報道されていました。その後どうなったのか知りませんが、当寺の境内では例年になく蝉の大合唱が勇ましく聞こえてきます。以前は毎年夏になると沢山の蝉が出てきたのですが、十数年前の本堂改修時に蝉のすみかだった境内の菩提樹を工事の妨げになるということでやむなく根っこから切り倒してしまったのです。それ以降、すっかり蝉の声が聞かれなくなってしまったのですが、ようやく引越しが完了したのでしょうか今度は菩提樹の近くのケヤキにものすごい数の蝉たちが出てくるようになりました。境内の木々の下に立っているとまるでシャワーのようにその鳴き声が降り注いでくるのです。そしてしばらく見上げていると自然と一体となったような不思議な感覚に襲われます。蝉が短い命をすり減らしながら精一杯発するその声に命の輝きとまた儚さを教えられたようでした。

蝉は蝉であるということに迷うこともなく、あるがままにいのちを輝かせながら精一杯生きている。自然と一体になって、あるがままに生きているのである。あるがままということは必然ということです。自然のリズムに逆らうことなく生きているということです。
しかし私たちはどうでしょうか。不自然極まりない反自然的な生き方をしているのではないでしょうか。自分探しという旅に出たまま人生を彷徨い続け、自然を自分の都合のいいように改変、破壊し続け、挙句の果てには深刻な汚染によって人間や生き物たちの住む大地を海を空をを失い…便利で快適な生活を追い求めてきた背景には数多くの犠牲が伴っているという悲しみを私たちは忘れていたのでしょう。目先の享楽を優先して大切なことから目を背けてきたのが私たちなのではないでしょうか。

今回の原発事故でこれまで当たり前に湯水の如く使用してきた電力について、否が応でも立止まらされ、そして見直しをせまられています。私もこの事故が起きるまでは、環境意識がなかったわけではありませんが、コンセントに挿せばいくらでも電気が湧いてでてくるような錯覚に陥っていました。クリーンで安全だというオール電化のキャッチコピーのもと電力の美点ばかりにしか目を向けず、「これからの時代はオール電化住宅だよね」とオール電化住宅が急速に普及してきました。特にここ北陸のオール電化住宅の普及率は全国ナンバーワンだそうです。その一因に北陸のガス料金が少し割高ということもありますが、クリーンで安全で更に電気料金がお得ということで、皆さんが選ばれたのでしょう。そのためオール電化に対してあまり悪いイメージを持っている人は少なかったのではないでしょうか。実は私の住宅もオール電化なのですが、恥ずかしながらその電気がどのようにして作られているのか一度も考えたことがありませんでした。オール電化を選択したことで電気代が節約になりCo2の削減に貢献しているのだという思いしかなく、罪の意識というものはこれっぽっちもありませんでした。ここ石川県にも原発がありますし、これまで原発反対運動なども報道はされていましたが、それらは能登半島の問題で自分にはあまり関係のないこととして目を背けてきたのです。目を背けてきたということは、推進してきたということです。私が原発を作らせてきたのです。便利な生活を追求してきた私たち一人ひとりが原発を作らせてきたのです。

この夏、国民の度節電意識が高まりみんなが協力して節電しながら暑い夏を乗り越えようとしています。日本国民が協力し、助け合いながら、節電しているということは、とても素晴らしいことだと思います。でも忘れていけないのは節電していても電気を使用しているという事実です。エアコンを消すことができない事実です。やはり快適な生活をしたいのです。当たり前ですが節電しても電気を使用しているのに変りないのです。使用している量が多いから駄目、少ないから良いという問題ではないのです。例えば、食べ物を沢山食べる人とあまり食べない人で、どちらが罪深いか?いのちを沢山殺してきたという点においては沢山食べる人のほうが罪深いのかもしれませんが、いのちをいただかなければ生きていくことができないという事実に立つとど両者の罪深さに違いはありません。だから節電している人=善、エコカーに乗っている人=善とはならないのです。むしろ節電意識や環境意識が高い人ほど自らの罪深さに気づかないということがあるかもしれません。

原発事故以降、様々な代替エネルギーが検討されています。Co2の排出量を減らしながら、これからも増えていくであろう電力需要に応えていかなければいけないということですが、急速に地球温暖化が進んでいる中にあってそれらの要求に応えていくことは大変困難であることが予想されます。テレビなどの報道では「脱原発」、そして太陽光発電、地熱、風力といった安全かつクリーンな発電方法が脚光を浴び、様々な可能性が検討されていますし、実際にそのような方向に否が応でも進んでいくことだと思います。ただしそうなっていくからといって原発=悪、太陽光発電、地熱、風力=善ということではありません。原発が悪いわけではありません。私たちはこれまでも、そして現在も原発によって作り出された電気で生活させてもらっているわけですから、もっと感謝しないといけないのかもしれません。あんなに無残な状態になるまで耐用年数を超えて働かされてきたわけですから。単純に原発=危険ということだけではなく、「福島第一原子力発電所長い間お疲れ様でした。安全に運用できなくてゴメンナサイ」とこのような視点がもっとあってもいいような気がします。原発自体は何も悪くないはずです。誤解のないように言っておきますが、私は別に原発を推進しているわけではありません。むしろその逆です。今回の事故による環境汚染や被爆者、そしてこれまでも多くの被爆者をだしながら運用してきたという事実を見せつけられたわけですから。

次に太陽光発電、地熱、風力などが善にならないのはなぜでしょうか。私たちはクリーンで安全だということでそれらの発電方法にシフトしていくことが善いことなんだと当たり前のように思っています。仏教で問題になるのはその善いことをしているという自分の思いです。人間の都合で環境破壊してきた挙句、今度は自然環境を修復していこうとしている、その人間の都合で自然を支配しコントロールしていけると思っている。そこに人間の自然に対する傲慢さが表れているように思います。仏教では「自然」を「じねん」と読みます。「しぜん」と言うときは自然の中に私が含まれていないのです。自然を対象化し人間の思いでどのようにでも支配していけるという私たちが普段、環境問題を考える時などに無意識的に自然に対して接してしまっている自然との関わり方です。これに対して「じねん」という時には自然の中に私が含まれているのです。私も自然の一部だったのだと知る時、自然の流れの中でその流に逆らう不自然な私というものが知らされてきます。そこに自然に対する畏敬の念というものが生まれ、自然を破壊しながらしか生きて行くことのできない我が身の事実に頭が下がるのでしょう。その流に逆らう生き方しかできない我が身の事実が知らされるところに、流に逆らう不自然な私がそのまま自然と流がれていくのです。なんでこんなめに合わなくてはいけないのだということも、このような目にあうことが今の私には必要なことだったのだと、必然のこととして受け止めていくことができるのです。なるようにするのでもなく、なるようにならないのでもなく、なるようになっていたのだと。

これだけの事故をおこして、環境汚染が広がっても、便利な生活を止めることができないのが私。こんな私をも許してくださっていた世界を蝉の声に聞いた今年の夏でした。