2009年10月7日水曜日

私が南無と思うていたら 仏さんに南無していただいておった ナムアミダブツ・・・

「南無」の言は帰命なり。ー中略ー
「帰命」は本願招喚の勅命なり。  
               
『教行信証』行巻 親鸞聖人


帰命=南無とは本願に気づいて欲しいという仏様の叫び声です。

私たちが南無するのに先だって仏様はいつも私たちに南無してくださっています。
仏様を信じていようがいなかろうが、念仏を称えていようが いなかろうが、起きているときも寝ているときも、たとえ仏様のことなんて一度も考えたことも思ったこともないような無関心な人であろうとも、いやそんな私たちだからこそ見捨てておくことができずに、きっといつか気づいてくれるはずだと、なんとかして私の(仏様の)願いを届けようと南無してくださっておられるのが仏様です。私たちを信じ呼びかけてくださっているのに、煩悩が邪魔をして煩悩具足の身には呼び声が仏様の呼び声として響いてこなのです。

私たちは自分の願いを叶えることに一生懸命ですから、「あれもしたい、これもほしい」と自分の声ばかりうるさくて仏様の声などまったく聞こえないのです。そして思い通りにならなかったならなかったで今度は「なぜこんな目に…」と愚痴の声がやかましい。こんな救いようのないのが私たちの姿です。他の仏様ならもう愛想尽かして見捨ててしまうのではないかというくらいどうしようもない姿。しかし阿弥陀さんは私たちを見捨てることは決してありません。なぜなら阿弥陀仏になる以前、すなわち法蔵菩薩であった時、私たちのありとあらゆる苦しみをすべて味わっているからです。そこに阿弥陀さんが因位を持つ大切な理由があるのだと思います。
また『教行信証』真仏土巻には


仏をまた「地獄・餓鬼・畜生・人・天」と名づく
                     
『教行信証』真仏土巻 親鸞聖人


と涅槃経から引文されています。
地獄・餓鬼・畜生・人・天とは流転する私たちの迷いの姿です。仏様は仏の位を投げ捨ててどこまでも迷い続ける私たちを見捨てることなく寄り添い続けてくださっているのです。
また十八願だけではなく十九願・二十願もお建てになられているところにも決して救いから漏らす人をだすまいとする願心の深さが伺えます。
とにかく私たちの苦しみを知っているからこそ、どんなことがあろうとも救わずにはおれずに私たちの苦しみを我が痛みとしてなんとかしようと、絶えることなく常に私たちに呼びかけてくださってるのです。

私たちの煩悩は頑固ですから、聞法する縁に恵まれて私たち凡夫は煩悩具足の身であると聞かされたとしても、なかなか自分のことを言い当てた言葉として響いてこないのではないでしょうか。わかっているようないないようなもどかしく感じることでしょう。

煩悩があるから私たちは救われないのではありません。もうどうしようもなくなっても、まだなんとかなると思っている自分がいるからなのです。もう駄目だと思いながらも、なんとかなる、きっとなんとかなるはずの自分を握りしめて自分で自分の首を絞め、苦しんでいるのです。どこまでも自分の力で自分の思い通りにしようとしています。このように自分を信じている私たちですから念仏で救われるといっても念仏が頼りなく感じてしまうのでしょう。どこまでも本願を疑ってしまっているのが私たちです。

なんとかなっている私が本当の私なのではなく、もうどうにもならないのが本当の私の現実であり、もっというと現実から目を逸らし、さらになんとかなると思い続けている自分こそが本当の自分なのだと思います。そこに本願を疑いつづけていた我が身が明らかとなるのです。明らかになった自分自身に立てた時にはじめて、もうどうすることもできない自分自身に頭が 下がるということが起こり、思わず念仏がこぼれでる。

南無と頭が下がるということは、私たちに先立って私たちを信じ、南無し、念じてくださっていたということがあるからこそ、仏を念ずるということが私たちにおこってくるのです。そのことを『歎異抄』(第一章)では「念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき」と表現されたのでしょう。南無阿弥陀仏とは私たちが南無と何かお願いしているということではなく、南無してくださっている仏様の願いをきちんと受け取った姿なのです。そのことを本願成就文では


「聞其名号 信心歓喜」

本願成就文


と仏の名を「聞く」という表現されています。
私たちにどうか私の名を称えてくださいという仏の願いを受け取るということはその仏の声聞くということです。仏の声がはからずしも私の処までとどけられた感動、その表白が信心歓喜の念仏であり、同時に届くはずのない私のところまで届けてくださった如来の願心を知らされ、そのご恩に報いずにはいられない、報恩謝徳の生活が始まるのです。


私たちは、仏様というとなにか遠いところにおられる偉いお方のように思ってしまいます。阿弥陀仏とはそれは本願のはたらきを自己とする名乗りにおいて名づけられた名です。智慧と慈悲のはたらき、すなわち本願のはたらきだけでは私たちには到底窺い知ることはできないので、具体的に阿弥陀とお名乗りになって私たちにもわかる言葉となって呼びかけておられるわけです。 そしてその南無阿弥陀仏という名前を私たちのところまで過去無量の諸仏が歓びつたえてこられたのです。単なる名前としてではなく具体的なはたらきとして、 その身をもって証明してくださっていたのが無数の諸仏なのです。その中でも直接的に私に届けてくださった方を特に善知識というのでしょう。


真の善知識というは諸仏・菩薩なり。別していうときは、われらに法をあたえたまえるひとなり。
                                 
『浄土真要鈔』存覚上人


親鸞聖人にとって直接の善知識は法然上人であったのでしょう。しかし法然上人だけでなくその法然上人を生み出した諸仏も法然上人以前に無数におられたわけなのです。お釈迦様は仏法をはじめて仏教という教えとして、わたしたちにでも分かるように具体的に説かれました。そして七高僧をはじめとする無数の諸仏が念仏者として生き、念仏者を生み出し育て、その身をもって本願を証明し親鸞聖人まで届けてくださったのです。そしてその念仏が今私たちのところにも届けられているのです。


去・来・現の仏、仏と仏と相念じたまえり。
             
『大無量寿経』

一人の念仏者の念仏には、私のところまで届けてくださった 過去無数の諸仏がいらっしゃるということです。それだけでなく、現在仏教に関心のない、たとえそういう人であってもいつかきっと気づいてくれるはずであると、すべての人を未来の仏として見出していく、そういう視点を賜るのです。自分の目覚めをとおして、すべての人にあるいのちの願いに気づいていくのです。 間違ってはいけないのは、私が仏になったから過去の仏、未来の仏と仏仏相念つまり仏様と心通じ合うことができるのではないのです。あくまでも身は凡夫で、 そういう身であるけれども、仏さまのお心を知ることができたということです。そういう人を御和讃に「信心よろこぶそのひとを 如来とひとしとときたもう」 と表現されています。凡夫がそのまま如来だと言っているのではなく如来のお心に気づいた人を如来とひとしとおっしゃっているのでしょう。今ここにある念仏は、自分勝手な独りよがりな念仏なのではなく、過去、未来の仏から問われている念仏なのです。もうどうしようもない凡夫としてその問いかけに耳を傾けていくこと、それが念仏者の歩みなのだと思います。

一切の存在に仏を見出してくださっている、そのお方を仏様といいます。