2008年9月19日金曜日

みんな名役者 そろそろ交代しませんか 主役は仏様

ものごころがついたころから人は、それぞれ自分の人生というシナリオを思い描き、その物語の主人公を演じ続けているのです。テレビ等ではしょっちゅう「夢」という言葉が聞かれます。「夢をもたなくてはいけない」、「夢をかなえるために生きているのだ」等々というふうに子供のころからいつのまにか脳裏にすり込まれているのです。「夢」や「希望」などと耳障りの良い言葉を使っていますが、結局自分の思い通りにしたいという煩悩の働きに振り回されているだけなのです。煩悩を夢という耳障りの良い言葉に置き換えて自分の欲望を肯定しているのです。しかし残念ながら、その夢をすべての人がかなえることができるとはかぎ りません。自分の思い通りにならないと「こんなはずじゃなかったのに」と挫折し、時にはそんな自分を受け入れることができずに、自らを死にいたらしめることさえある。また「どうせ自分なんか」と卑下し、成功者を恨み羨むこともある。


お釈迦様はこの世を「一切皆苦」とおっしゃりました。思い通りにならないから苦しいのですが、自分の思い通りにならないのが当たり前ということです。思い通りにならないのが普通なのに、思い通りにしようとするから苦しむ訳です。仮に自分の思い通り夢がかなったなら、それを喜べばいいのですし、またたとえかなわなかったとしてもったとしても恨みがま しい思いをする必要はありません。
成功しようがしまいが仏様の御はからいであるから、結果がどうであれ不満をもたない。かなっても、かなわなくてもそれがあなたの人生なのです。「こんなはずじゃなかったのに」と人生をなげだしてしまうのではなく、どうなろうがこれが自分の人生なのだと受け止めて、歩みつづけていける。それが仏を主役とした生き方なのでしょう。
 

私たちのもつ夢はかなうと消えてしまうような、自分勝手な願いですし、かなったらかなったでまた次の夢を追いかけて走り続けていくということになるのでしょう。人間の欲にはきりがありませんから。
ここで誤解されないように、一応確認しておきますが、決して夢をもつなといっているわけではありません。夢にむかって努力をしないのではなくて、今努力することができることを喜ぶことができる。夢が叶おうが叶うまいが、今その夢にむかってがんばれる、その今を支えてくださっているのが仏様なのです。今こうしてがんばることができるということは、どんなにすごいことなのかを喜び、感謝し、その恩徳を知らされながら一歩一歩、歩まさせていただく。結果が出る出ないを超えて、自分のできることを精一杯させていただく。私がするのではなく私がさせていただくのです。このような謙虚な生き方が、仏様を主役とする生き方なのではないでしょうか。私の目にはなるようにしかならなかったようにしか見えないことも、仏の眼にはなるようになっているように映っているのです。