2008年11月10日月曜日

いくつになっても ほとけの子

私たちは本来ほとけの子としてこの世に生を受けているのですが、自我の自覚とともにいつの間にかそのことを忘れてしまっているのではないでしょうか。。
みなさんの子供 の頃を思い出してもらってもいいですし、身近に小さなお子さんがいらっしゃる方はよく観察してみてください。子供は常にありのままを生きています。笑い、 泣き、叫び、そして好きなことをして遊び、疲れたら眠り…ありのまま、自由自在です。このような自我が確立される以前の子供をほとけの子といいます。しかし自我が確立されると、その自我中心つまり煩悩を喜ばせるために生きることになってしまうためにありのままを生きることができず、ほとけの子から遠ざかった生き方をしていくことになってしまいます。「有名な学校に入りたい」「給料のいい会社に入りたい」 等々…行動が何か目的がないと動けなくなるのです。「有名な学校に入るために勉強する」「給料のいい会社にはいるために勉強する」この「ため」というのが曲者ですが、結局この「〜のため」というのは「煩悩のため」でありましょう。
しかしこどもは何かのために遊んでいるわけではありません。ただ楽しいから遊んでいるだけです。

専修念仏のとも がらの、わが弟子、ひとの弟子といふ相論の候ふらんこと、もつてのほかの子細なり。親鸞は弟子一人ももたず候ふ。そのゆゑは、わがはからひにて、ひとに念仏を申させ候はばこそ、弟子にても候はめ。弥陀の御もよほしにあづかつて念仏申し候ふひとを、わが弟子と申すこと、きはめたる荒涼のことなり。(『歎異抄』第六章)


この「わが弟子、ひとの弟子」といふ相論も「〜のため」「自分のため」という生き方から生じたものでしょう。「わが弟子」と弟子を私有化、つまり自らの手柄にしてしまうといような名利心が潜んでいるのです。

ここで親鸞聖人は「親鸞は弟子一人ももたず候ふ」とはっきりおっしゃっているように自らの手柄に少しもしようとはしていません。なぜなら念仏であれ信心であれすべて如来より賜ったものであるからです。

弥陀の本願を信じ、念仏する親鸞聖人には「わが弟子、ひとの弟子」という区別だけでなく「師匠、弟子」といった区別もなかったのです。「我」も「ひと」も同じいのちをいきる衆生、すなわちみんなほとけの子であるという世界を感得されていかれたのでした。仏の眼から観れば共に凡夫でありともに仏を主とする仏の子なのです。

わたしたちの親様は仏様。

2008年9月19日金曜日

みんな名役者 そろそろ交代しませんか 主役は仏様

ものごころがついたころから人は、それぞれ自分の人生というシナリオを思い描き、その物語の主人公を演じ続けているのです。テレビ等ではしょっちゅう「夢」という言葉が聞かれます。「夢をもたなくてはいけない」、「夢をかなえるために生きているのだ」等々というふうに子供のころからいつのまにか脳裏にすり込まれているのです。「夢」や「希望」などと耳障りの良い言葉を使っていますが、結局自分の思い通りにしたいという煩悩の働きに振り回されているだけなのです。煩悩を夢という耳障りの良い言葉に置き換えて自分の欲望を肯定しているのです。しかし残念ながら、その夢をすべての人がかなえることができるとはかぎ りません。自分の思い通りにならないと「こんなはずじゃなかったのに」と挫折し、時にはそんな自分を受け入れることができずに、自らを死にいたらしめることさえある。また「どうせ自分なんか」と卑下し、成功者を恨み羨むこともある。


お釈迦様はこの世を「一切皆苦」とおっしゃりました。思い通りにならないから苦しいのですが、自分の思い通りにならないのが当たり前ということです。思い通りにならないのが普通なのに、思い通りにしようとするから苦しむ訳です。仮に自分の思い通り夢がかなったなら、それを喜べばいいのですし、またたとえかなわなかったとしてもったとしても恨みがま しい思いをする必要はありません。
成功しようがしまいが仏様の御はからいであるから、結果がどうであれ不満をもたない。かなっても、かなわなくてもそれがあなたの人生なのです。「こんなはずじゃなかったのに」と人生をなげだしてしまうのではなく、どうなろうがこれが自分の人生なのだと受け止めて、歩みつづけていける。それが仏を主役とした生き方なのでしょう。
 

私たちのもつ夢はかなうと消えてしまうような、自分勝手な願いですし、かなったらかなったでまた次の夢を追いかけて走り続けていくということになるのでしょう。人間の欲にはきりがありませんから。
ここで誤解されないように、一応確認しておきますが、決して夢をもつなといっているわけではありません。夢にむかって努力をしないのではなくて、今努力することができることを喜ぶことができる。夢が叶おうが叶うまいが、今その夢にむかってがんばれる、その今を支えてくださっているのが仏様なのです。今こうしてがんばることができるということは、どんなにすごいことなのかを喜び、感謝し、その恩徳を知らされながら一歩一歩、歩まさせていただく。結果が出る出ないを超えて、自分のできることを精一杯させていただく。私がするのではなく私がさせていただくのです。このような謙虚な生き方が、仏様を主役とする生き方なのではないでしょうか。私の目にはなるようにしかならなかったようにしか見えないことも、仏の眼にはなるようになっているように映っているのです。

2008年8月12日火曜日

ほら 目をあけてごらん いのちが輝いているよ


前回掲載した詩からの抜粋です。
この詩は現在10ヶ月になる我が娘を見ていて思いつきました。
赤ちゃんは一日一日、いや一瞬一瞬を精一杯生きています。

手足をバタバタさせて、まるで手足が動かせることを精一杯よろこんでる様。
ただのお茶を本当に美味しそうに一口飲んでは「ぷはーっ」と声にして感動。
ただ立ったり座ったり、ただ歩るけることが楽しく、転んでも何度も何度も繰り返す。本当にうれしそう。

赤ちゃんの目には見るものすべてがめずらしく、世界が輝いてみえていることでしょう。
毎日が新鮮でいのちが光輝いているようです。

それに引き替え大人は・・・

手足を動かせるのはあたりまえ
歩けるのもあたりまえ
食べられるのもあたりまえ
生きていられることもあたりまえ

なんでもあたりまえ、そこに喜びや感動や感謝などなにもありません。
あたりまえのことばかりでは退屈でつまらないので、何かおもしろいことはないかと外にめずらしいものやの、刺激ばかりを追い求めています。

しかし本当はあたりまえのことなんか何一つないのではないでしょうか?

東井義雄先生の著書『おかげさまのどまんなか』を読んでいると井村和清先生の「あたりまえ」という詩にであいました。
あたりまえ
こんなすばらしいことを、みんなはなぜよろこばないのでしょう
あたりまえであることを
お父さんがいる
お母さんがいる
手が二本あって、足が二本ある
行きたいところへ自分で歩いてゆける
手をのばせばなんでもとれる
音がきこえて声がでる
こんなしあわせはあるでしょうか
しかし、だれもそれをよろこばない
あたりまえだ、と笑ってすます
食事がたべられる
夜になるとちゃんと眠れ、そして又朝がくる
空気をむねいっぱいにすえる
笑える、泣ける、叫ぶこともできる
走りまわれる
みんなあたりまえのこと
こんなすばらしいことを、みんなは決してよろこばない
そのありがたさを知っているのは、それを失くした人たちだけ
なぜでしょう
あたりまえ

東井先生は、あたりまえのすばらしさの見えない人を「目をあけて眠っている人」というのだとおっしゃっています。

私たちの目には自分の都合のいいようにしか世界が見えていないのでしょう。
だから、それを(あたりまえのことを)失くしても、傲慢な生き方をしてきた私たちは「何で私が」と不平不満が出てくるばかりで、本当に大切な事になかなか気づくことができません。あたりまえのことがあたりまえでなくなったとしても、なにもそのありがたさに気づかずに、再びいつものあたりまえの日常生活にもどってしまうのは、あまりにも悲しすぎます。あたりまえを失くした人にしか気づくことが出来ない世界がそこにはあるはずです。
仏さまのほうから言うと、「本当に大切な事に気づいてくれよ」という気づきのチャンスをあたえてくださっているのです。
その願いに耳をかたむけ、あたりまえのすばらしさに気づくことができたなら、今あることに感動し、いのちが輝いてくるのではないでしょうか?

「目をあけて眠っている人」を呼び起こすのが南無阿弥陀仏であり、そこに開けてくるのが仏の眼なのです。仏の眼にはあるがままの世界があるがままに映り、あるがままの私があるがままに映るのです。そしてそこにあるがままの私があるがままに生きていくことができるのです。南無阿弥陀仏が今ここに在ることがあたりまえのことなのではなく、この世に生まれ今こうして生かさせていただいていることのただごとでなさを気づかせてくださるのであり、またそこに生きていることの感動が呼び起こされ、いのちが躍動し、そのかけがいのないいのちが輝いてくるのです。

しかし、そのよろこびや感動も、日々の生活の中でいつの間にか「あたりまえ」になってしまいます。だからこそ日々の念仏の生活が大切なのでしょう。お念仏が再び感動を呼び起こしてくださる。そしてその生きていることの喜びを念仏に受け止めて生きていけたらと思います。


よく子は親を映す鏡といいますが、あるがままを生きる我が子を見る度に「目をあけて眠っている人」である私に気づかされます。

2008年7月11日金曜日

ほら 耳をすませてごらん いのちが呼んでるよ

ほら、耳をすませてごらん

いのちが呼んでるよ


わたしはあなた

あなたはわたし

みんな同じいのちを生きている



ほら、口にしてごらん

ほとけの御名を


わたしはあなた

あなたはわたし

みんなほとけのいのちを生きている




ほら、目をあけてごらん

いのちが輝いているよ


わたしはあなた

あなたはわたし

いのちがあなたを生きている

2008年5月26日月曜日

私は愚 あなたはグー

今回の掲示は、「グー、グー、グー」とテレビを賑わしているエドはるみさんからネタを頂戴致しました。

普段、私たちはの在り方として、相手の上に立ち自分こそ正しい、あなたの考えは間違っていると人を裁き続けているのではないでしょうか?今回の掲示の言葉で言うと「私はグー あなたは愚」という全く逆の在り方である。

そのような在り方を正信偈では「邪見驕慢悪衆生」という言葉でいいあらわされています。「邪見」とは自分こそは正しいという在り方。また「驕慢」とはおごりたかぶっているということ。人と比較しては「私の方が上だ、あいつのほうが下だ」というふうに一喜一憂するという在り方です。つまりどちらも自己中心的であり、自分が一番かわいいということです。そういう在り方でいる時は、決して頭が下がることがありません。


仮に私は愚であると頭を下げることがあったとしても、頭が下がったのではなく、ただ下げているのであるから、「私も愚であるが、あんたも愚じゃないかー」とすぐに頭が上がり、自分は正しい、間違っていないと相手よりも上に立ってしまうのです。ここで大切なことは「頭を下げる」のではなく「頭が下がる」ということです。


私は「自分が一番可愛い邪見驕慢悪衆生でした、間違っていまし た」と頭が下がる、それが仏智です。前回の掲示でいうところの「仏の眼」に邪見驕慢悪衆生が映ったのです。ただそれでけのことを思い知る、ただありのままの世界、ありのままの自分の姿を思い知るのです。そしたらその時、もう比較対象としての「あなた」は必要なくなっているのです。つまり、ありのままの「あなた」をありのまま、事実を事実のまま認めていくことができるのです。


許す
許さぬは
外への視点
視点を内に転ずれば
私も許されている  (『癌告知のあとで』鈴木章子)

人や社会を相手に「許す」だの「許さない」だの裁き続けている から、我と我が我他彼此とぶつかり合い争いがおこるのでしょう。自分こそ正しいと善人ばかり集まっているから争いがおこるのです。悪人ばかりだったら決して戦争などおきないのではないでしょうか。悪人とは「私も許されている」「間違っていたんだ」と本当に頭が下がり、悪人の自覚が生まれた人をいいます。
念仏すると悪人が善人になるのではなく、念仏が善人になっていた私を本当は悪人であると気づかせてくれるのです。本当の「私」の姿が見えた時、これまでと違った社会、そして「あなた」が見えてくるのではないでしょうか。

常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)はすべての人々の内に仏性を見出し「あなたは仏になるべき尊い人です」と合掌礼拝し続けられました。たとえ棒で叩かれ、石を投げつけられても拝み続けられた。常に相手を軽んじることがなかった。つまりどんな相手であっても尊敬していかれました。

しかしなかなか私たちは常不軽菩薩のようには生きられません。 むしろ逆に棒で叩き、石を投げつけているのが私たちの現実なのではないでしょうか。しかし聞法を通して仏のいのちへの気づきが深まるにつれて、「あなたも」おなじ仏のいのちを生きる仲間として見出されてくるのです。そしてお互いがお互いに気づきの縁になりながら、尊敬しあえるような世界を親鸞聖人は御同朋・御同行といわれたのではないでしょうか。

親鸞聖人は『歎異抄』で弟子唯円がなにをお尋ねしても、決して高いところに立って、「そんなこともわからんのか」と咎めたり、ああだこうだと一言もおっしゃらなかった。常に親鸞聖人は唯円と同じ目線に立って「おまえもそうなのか、実は私もそうなんだよ」とまず相手の立場を認めていくことから話を進められた。親鸞聖人は悪人としての自覚があったからこそ、同じ立場に立てるのでしょう。そこに「常不軽の人」としての親鸞聖人があったのではないでしょうか。


僧は万事いらず常不軽菩薩の行ぞ殊勝なりける  (良寛)


常に問題となっているのは「外」ではなく「内」、「あなた」ではなく「私」なのです。

2008年4月2日水曜日

まことの私は 仏の眼にしか映らない

私たちの目は外に向かってついているので、自分の本当の姿が見えない。それは自分の目で自分の目をみることができないように。
信心すなわち仏の眼を賜ると、仏の眼はこちらを向いているので、私の本当の姿を映してくれる。

自分が見えない人は、まるで世界が自分中心に回っているかのような生き方をする。
自分に都合が良いことが起こる時は、天下をとったように勝ち誇り頭を上げる。
しかしひとたび自分に都合の悪いことが起こると「なぜ私が、なんで私だけと」とすぐ外すなわち他人(世間)のせい。外のせいにして内である自分が全く問われていない。

本当の自分の姿を知ったならば、とても頭を上げて生きていくことはできない。
なぜなら仏の眼に映るのは、罪悪深重煩悩熾盛の凡夫であるから。

しかし、煩悩に染まった存在である私たちは、すぐにそのことを忘れて頭が上がってきてしまう。だからこそ日々のお念仏が大切なのでしょう。上がっては下がり、上がっては下がり、聞法を重ねていくにつれ、だんだんと頭が下がる回数のほうが増えていく、それが念仏者の生きる道なのです。

2008年1月31日木曜日

生も私 老いも私 病も私 死も私

いつも世間でもてはやされている事柄は、いかにして老病死を避けるかということ。しかしそれらは決して避けることができない、そんなこと子供でも知っているはずなのに、私たちは、それらを忘れて常に背を向けて生きている。

例えば、思わぬ病気になり病院に入院する。「こんなはずじゃなかったのに、こんな病気になっているのは本当の私ではない、はやくよくなって退院しなくては…」 また回復し病院から退院することを社会復帰という。

健康であるのが私であって、病気になり、病院で横たわっているのは本当の私ではないというのである。病院の外の社会に生きることこそ、本当の私の在り方なのだと。

退院できればいいが、もしできなかったら…


このように現実から目を背けるのではなく、自分の人生が今の状態とは別のものでなければならないと執着せずに、 病気になったら病人として病人になりきることが本当の私でいるということなのではないでしょうか?健康でいるのも私だったけれども、病気と闘い苦しんでいるのも 私だと。「私」が病気になるのではなく、今病気になっているのが「私」なのです。


安田理深先生が、老人性結核で病院で入院された時、 いちばんしんどかったのは病人になりきることだったとおっしゃられたそうです。また「最後にやっとわかったことは、病人になって病気することだった」とも おっしゃられたそうです。身はすでに病気をし病人として決定しているのに、こころが決定していないのです。こころがいつまでも健康人のままでいる。我がこころが我が身に決定しないのです。

どんな私であってもこころが身に本当に決定することを信心決定というのでしょう。決定したということは、どんな困難があってもその事実を事実として受け止めていけるということです。 その困難がたとえ老病死だとしても。 生老病死どれも私。