2012年5月18日金曜日

迷いの深さはいのちの深さ いのち深き故 道を求むこころ発こる




昨年の報恩講で相馬豊先生に次のお言葉教えていただきました。

国宝とは何者ぞ。宝とは道心なり。
道心ある人を名づけて国宝となす
最澄

道心すなわち求道心が宝であり、国宝であるとまでいわれており、すこしびっくりさせられました。それだけ道を求める心を持つ人が尊いということなのでしょうね。
しかし、道心を持つ者と持たない者があるのではなく、その人が気づいてようがいまいが、人として生きているすべての者が本来持っているものなのでしょう。だから道というのはなにも仏門に入って修行をするといったような仏道に限ったことではありません。仏道を求める人であっても、仏道を求めることのない人でもあろうとも、仏道というかたちをとってないだけで、道を求める心をこころは地下水のように人の歴史の底を流れているのです。

人は一人ひとり別々の道を歩んでいます。そしてその道に悪戦苦闘しながら一生懸命に生きています。「これこそ私が求めた私のための道だ」と順風満帆に歩む時もあれば、失敗したり、行き詰まることもあるでしょう。「私が歩むべきは道は本当にこれでよかったのだろうか」「もっと他に別の道があるのではないだろうか」不安感や虚無感そういうものを抱えながら生きている。その不安や虚しさは、いのちの深さ故感じるのです。思い通りにならなくても虚しいが、思い通りになってもやっぱり虚しい。それだけ私たちが抱える迷いが深いということであり、同時にいただいたいのちも深いということです。ちっぽけな充足感や気休めでは満足しない、そういう深いいのちを生きているのです。だから心の奥底から本当に満足できる、いのちが満たされるような道を求めるこころが発こってくるのです。そしてその求道心に押し出される歩みがそのまま仏道となっていくのでしょう。