2009年8月1日土曜日

さあ 帰ろう いのちのふるさとへ

私の思いを超えてこの世に生を受けた、この身体。一体どこへ向かって歩いているのだろうか。眼前の諸事に心を奪われ、「忙しい、忙しい」と文字通りこころを亡くして、忙しいことを善とし、そのことに眼を背け続けてている私。忙しくしていれば、それで満足か。なにを立ち止まることを恐れておる。なぜだかわからないが落ち着かない。なにかが足りないのか。なにかやり忘れたことがあるのか。こころが満たされているようで満たされていない。それは何か大切なものを求めているという、わたしのいのちがもつ本能的欲求のあらわれなのであろうか。私がしていることは、本当にいのちが願っていることなのか。このいのちをどのように受け止め、歩んでいけばよいのだろうか。


しらざるときの いのちも、阿弥陀の御いのちなりけれども、いとけなきときはしらず、すこしこざかしく自力になりて、「わがいのち」とおもいたらんおり、善知識「もとの阿弥陀のいのちへ帰せよ」とおしうるをききて、帰命無量寿覚しつれば、「わがいのちすなわち無量寿なり」と信ずるなり。かくのごとく帰命するを、正念をう、 とは釈するなり。

『安心決定鈔』(あんじんけつじょうしょう)


「いとけなきとき」まだ物心のつかない幼い時、仏から賜ったいのちをいのちのまま、あるがままに生きていたのに、「すこしこざかしく自力になりて」物心ついた時からいつの間にか、自分の思いで仏のいのちであるはずのいのちをなのにわがものとし、そのことによって、またそれが原因とも知らずに悩み苦しみながら生きているのです。

一歳九ヶ月になる我が子を見ておりましても、今まであんなに泣き叫んでいたのに、次の瞬間にはもうケロッとしてニコニコ笑っていたり…なんの迷いもなくただ感情のままに生きているように思います。

しかし、成長するにしたがって、いのちを自分の思いでとらえ、自分の思いで生きてしまうようになるのです。それが世間でいう成長なのでしょうが、仏様から見るとどんどん、仏のいのちから遠ざかっていっていることになるのでしょうね。つらいことや悲しいことがあっても、「そんなことでは世間が許すか」「こんな自分ではだめだ」と素直な感情を理性でもって蓋をしてさらに苦しむことになるのです。そして幼き時は考えもしなかった「何のために生きているんだろう」と人生に虚しさを感じつつより深い迷いに沈んでいくのでしょう。花は何の迷いもなく自らの花を咲かせようとします。また鳥は鳥であることを迷ったりはしません。しかし人間は自らを見失い、この身をどのように受け止め、どこに向かって歩んでいけばいいのかわからなくなってしまっているのです。

虚しく感じるのは虚しくない生き方を求めている証しであり、寂しく感じるのは寂しくない生き方を求めている証しです。そこにいのちがはたらいているからこそ虚しさや寂しさを感じるのであって、そこに今の自身の在り方が問題になってくるのです。私たちその虚しさや寂しさから目をそらそうとしますが、向かい合い、耳を傾けていくことが大切なのです。なぜならそれがいのち自身の本当の願いだからです。その時いのちの願いを見失い迷いさまよっているの姿に気づかされていくことになるのでしょう。

帰れるから
旅は楽しいのであり
旅の寂しさを楽しめるのも
わが家にいつかは戻れるからである

『死の淵より』高見順

高見順の「帰る旅」という詩の冒頭の言葉です。
当たり前のことと思われるかもしれませんが、もし帰る家がないのならば、それは旅ではなくて、さ迷っているということになります。死んだら終わりと考える私たちは、人生という当てのない旅を迷っているとは気づくことなくさ迷い続けているのでしょう。

帰るべき場所が 見つかったということは、生きていく方向、生きていく道が定まったということいなります。それを仏教用語では正定聚(しょうじょうじゅ)の身といいます。 しかもそれは現生正定聚であるから、今ここに帰るべき道が見つかったということであって、死後にはじめて帰れるということではありません。死後の問題と思われるかもしれませんが、死といってもその死は結局は現在につながっているのですから、遠い未来のことではなく今ここが常に問題になってくるのです。わかりやすくいうと、 死を含んだ生を今いきているからということになるのだと思います。生死一如と言ったほうがいいのでしょうか。ですから今ここにお念仏するということが大切になってくるのです。

今ここにお念仏申すところに、いのちのふるさとであるお浄土へ帰らせていただくのです。お念仏は浄土との架け橋であり、本来のいのちにいつでも帰っていけるのです。とはいっても、この身がある限りいつの間にかというかほとんどいつも「わがいのち」としてしまっているのが、私たちの在り方なのでしょうね。

しかし「わがいのち」としているからこそ「しらざるときのいのち」があることを知ることができる。それを知り得た喜びとともにありのままを生きられぬ悲嘆すべき身の事実をしらされる。その気づきを深めていくことが、ほとけのいのちへの気づきを深かめていくことになる、それが念仏者の歩む道なのでしょう。


「帰去来(いざいなん) 魔郷にはとどまるべからず」

                 『観経疏』善導