2010年8月16日月曜日

亡き人に念仏申すのではない 亡き人に念仏申さしめられるのです

金沢のお盆は7月ですが、一般的にお盆休みは8月のお盆にしかありませんので、遠方の方を中心に多くの方がお墓参りにいらっしゃいます。猛暑の中、墓前で手を合わせる姿を頭が下がる思いで拝見させていただいていました。そんな姿を拝見させていただきながら、やはり亡き人の力はスゴイなぁということを改めて知らされました。法話などで私たちがお念仏をしましょうと呼びかけてもなかなかお念仏をしようという気持ちになる人は少ないかもしれませんが、亡き人を前にすると普段手を合わさない人であっても自然と手を合わせるのです。それは亡き人のために手を合わせているというよりは、亡き人に手を合わせしめられているのだと思います。「亡き人に念仏申す」という時、念仏を自分の所有物にしてしまっていますし、亡き人を念仏申す必要がある存在として対象化してしまっています。亡き人を祈りの対象にしてしまうということは、亡き人を祈る必要があるもの(迷いの存在)とみなしているということになります。

そもそも亡き人を前に私たちは何かしてあげることができるでしょうか。生きている時であっても難しいのに亡くなってから何かしてあげることができるのでしょうか。どうすることもできないからといって「ご冥福をお祈りします」という都合のいい言葉で亡き人を祈る対象に追いやってしまっているのが、私たち現代人が亡き人に接する時の姿勢なのではないでしょうか。そういう姿勢からは自らを問うということや、本当は私たちの在り方のほうが問われているのだということがなかなか見えてきませんし、そこから自らの無明性が明らかになることは難しいと思われます。

私が亡き人を祈るのではなく、反対に亡き人に私たちが祈られていた。亡き人を念じるのではなく、亡き人に念じられていた。そういう私であったということに目覚める時、そこに念仏せしめられるということが起こってくるのです。念仏するはずの無い私が亡き人を縁に念仏申している、そのことが驚きであり不思議。世の中には不思議なことが沢山ありますが、今こうしてここに生を受け、念仏申さしめられるているということが一番不思議なことなのです。