2012年1月1日日曜日

年は変われども 変われぬは我が身 佛恩報謝の思い 新たなり


新年を迎えると、人は不思議なもので身が引き締まる思いとともに決意を新たにします。そしてその決意を具体的に書き初めとして文字で書き記したり、決意が実現するように神に祈ったりします。その決意の内容は人それぞれ様々でしょうが、主に改善や成長、回復、実現、安泰など変化を求めるものが多いのではないでしょうか。変化することによって、よりよい世界や社会、人間を実現しようとするのです。その向上心によって人間の歴史を見てもわかるように文明や文化、経済、科学などが発展発達してきました。

しかし、よく考えると何かを手に入れ変化することでより幸せを手になっていこうとするということは、それは今現在の自分に不満を持っているといことの表れだといえないでしょうか。無意識的ですが今現在の自分を否定してしまっていることになるのです。今の自分では駄目だということは、今は不幸せだと言っているようなものです。悲しいことですが、今の自分を受け取れずにいつまでも生きることに満足できないでいるのが、この私たちだといえるのではないでしょうか。

確かに人間の歴史は表面的には目覚ましい変化を遂げたのでしょうが、どうも人間の抱える闇というもは何ひとつ変わっていないようです。親鸞聖人の時代の人が抱える闇も現代を生きる私たちが抱いている闇も同じだといえます。実は心がけや決意でいくら改善しようとたとしても、それは表面的なものであり、根源的に変わることが不可能である、そういうどうすることもできない身を私たちは抱えて生きているのだということを親鸞聖人は教えてくださっています。

どうすることもできない私たちですが、どうすることもけれども、どうすることもできないからこそ祈らずにはいられないのかもしれません。

ところで浄土真宗はあまり祈りという言葉を使いません。祈りに対して否定的です。なぜなら祈りというと、どうしても個人的な要求を満たすための行為の意味合いが強くなってしまうからだと思われます。

それでは浄土真宗には祈りは存在しないのでしょうか。

曽我量深先生は「真宗には祈りというものがあるのですか」という問いにたいして次のように答えられます。

「真宗にも祈りはございます。ただし、この真宗での祈りとは人間が仏様にものを祈るのではなく、如来様から祈られた私である。だから、如来の祈りとして、真宗にも祈りというものはあるのです」

真宗の場合、祈りとは個人的なものではなく、如来の祈りとして存在すると。さらに如来から祈られた私であるとも言われます。通常、「如来の祈り」ではなく、「如来の願い」と表現します。なぜなら、それは祈りよりももっと深く具体的なものであり、四十八の願として、さらには名号というかたちとして現れてきた、その根本的な願いのことを如来の願い、本願というからです。
しかしここでは「祈り」について訊ねられているので、敢えて祈りと表現されたのだと推測されます。当然ここで言われる如来の祈りとは個人的なものではありません。もっと根源的かつ普遍的な祈りのことをそう表現されているのでしょう。それは私たちが起こす願いや祈りとは全く異質なものといえます。

しかし曽我先生は次のようにも述べられます。

阿弥陀の本願というものは特殊の願ではない。あらゆる人間性というものの根源になる純粋な願い、純粋な祈り、そういう共通しておるものが一切の人類の深いところに与えられておる。それがあるがゆえに私どもは聞いて信ずるということがある。それで「諸有の衆生、その名号を聞いて信心歓喜し乃至一念せん」と大無量寿経に記されてある。私どもは生まれながらにして信心のお念仏というものが与えられておる。 

阿弥陀の本願というものは特殊の願ではないと。また如来から呼びかけられる私たちは、如来の本願に呼応し得る存在であるとも。なぜなら生まれながらにして人類共通の純粋な祈りが与えられているからだと。
普段、生まれてからの願いに迷い惑わされながら生きている私たちですが、その根底には生まれながらに与えられているもっと純粋な願いがあるのです。

浄土真宗は個人的な祈りを全否定しているわけではありません。人間は祈ることでなんとか自分を受け止めようと必死に生きているのです。叶うから祈るのではない。祈らずにはいられないものをこちら側が抱えているからです。そういう悲しい存在なのです。そういう悲しい存在だからこそ、如来のほうが私たちに祈られる。私たちが神に祈ろうが仏に祈ろうが、それに先立って何時でもどんな時でも私たちを祈ってくださっている。

どうすることもできない問題を抱えるとき、個人的な祈りでは間に合いません。しかしそのどうすることもできないところに個人的な祈りが破られ、純粋な祈りに目覚めさせられていくのです。

私たちは、一体どうなりたいのでしょうか。
私たちの祈いとはどういうものなのでしょうか。
私たちは、如来から何を願われているのでしょうか。
その問いに耳を傾けずにはおれません。

本年も、変わりたくても変われないが変わろうとする、その迷いの身から目を逸らすことなく、確かな世界を確認しながら、仏恩報謝の思いを日々新に、お念仏と共に皆さんと歩んでいくことを願います。