2010年3月1日月曜日

念仏あるところに花開く ほとけの花が


詩人である坂村真民さんの詩にも「念ずれば花開く」という有名な一句がありますが、ほとんどの方は「念ずれば夢が叶う」という意味として受け止めてらっしゃるのではないでしょうか。私の母校でもある甲子園で有名な(最近はサッカーのほうが有名かも…)野球部の室内練習場にも「念ずれば花開く」と書かれた横断幕が掲げられています。コツコツと努力を積み重ねていけば、必ず甲子園優勝という夢が叶うのだ、だから厳しい練習だけれどもがんばろう、必ず報われるはずだというふうな意味合いなのではないでしょうか。

思えば、私たちは物心がついたころから、周りから真面目に努力すれば夢が叶う、だから「がんばれ、がんばれ」という周りの、そして自らの声援に「何のために勉強しているのか」、「がんばれば本当に夢がかなうのか」という率直な問いがかき消され、とにかく自分を信じて必死でがんばる生き方をしてきたような気がします。

このような生き方をしてきた私たちですから、「念仏あるところ に花開く」と聞いても念仏することによってその結果、自分の願いが叶う(花開く)のだろうと考えてしまうのは無理もないことだと思います。ですので今回の 掲示にはあえて「ほとけの花が」という言葉を置き、自分の願いがかなうということではなく、ほとけの願いがかなうのですよということを強調してみました。

涅槃経というお経に「一切衆生悉有仏性」とお言葉が何度もでて きます。生きとし生けるものはことごとく仏性(仏になる種)を持ってるという意味です。私たちは仏になる種を持っていながら、その種から花を開かせる縁になかなか出会うことができません。いやその縁は無数に頂いているいるのですが、自分自身の花を咲かせようと一生懸命で気づくことができないのです。また仮に夢が叶ったとしても私たちが咲かせることのできる花はあっという間に散ってしまう儚いものです。夢破れてどうにもならなくなった、もうがんばることができない、花を咲かせてみたが枯れてしまい、何のために頑張ってきたのかと虚しくなる。その時はじめて立ち止まるということがあるのではないでしょうか。私たちは立ち止まることを恐れて走り続けていますが、立ち止まって視点を内側に転じるということが必要なのだと思います。私自身の願いではなく、いのちそのものがもつ願いに耳を傾けるということが起こる時はじめて今まで光があたることなど一度もなかった仏の種に光があたるのでしょう。これまで自分自身で遮り続けてきた光がようやく種まで届いたのです。私たちが作り出してきた闇にとうとう光がさしたのです。そして光が種まで届いた時、ほとけの花は自然と咲くのでしょう。

いったんほとけの花が咲いてみれば、周りにも無数のほとけの種を発見することでしょう。私だけではない、生きとし生けるものすべてに仏の願いがかけられていたのです。年齢も性別も人種も貴賎も善悪も生まれた時代も問わず、さらには何教の信者であったとしても、ひとしくほとけの花が咲くことを願われている、そういういのちを共にいただいて生きている仲間だったのです。 そこに共に生きるという世界が開かれてくるのだと思います。あぁ、あなたも同じ願いに生きる仲間であったのだと。私たちは各々自分勝手な願いに生きている ようにみえますが、その根底には共通の願いが流れているのです。

舎利佛、もし人ありて、已に願を発(おこ)し・今願を発し・当に願を発して、阿弥陀仏国に生まれんと欲(おも)わん者は、このもろもろの人等、みな阿耨多羅三藐三菩提を退転せざることを得て、かの国土において、もしは已に生じ・もしは今に生じ・もしは当に生ぜん。

『仏説阿弥陀経』

ここでは、已に願いをおこした人や今願いをおこす人だけが不退転の悟りを得るのではなく、これから願いをおこす人も未来の仏として見出されています。まだ願いをおこしていない人であっても、きっといつかあなた自身に流れている願いに目覚めてくれるはずだと、きっとあなたにもほとけの花が咲くはずだと、このように信じ寄り添い続けていくというところに同朋という世界が開かれてくるのではないでしょうか。

私たちは自分を信じ自分の願いを叶えようと努力しますが、すでに信じられているあなたというものに目覚めて下さい。個人的な願いを満たすことでは決して満たされることのない、いのちの願いに目覚めて下さい。きっとあなたにもほとけの花が開くはずです。