2011年5月6日金曜日

はじめまして

金沢のお寺「浄光寺」の伝道掲示板をご紹介できたらと思っております。

2011年5月2日月曜日

自らの悲しみに目覚めるとき 人はやさしくなれる


世間一般の教えでは(嘘をついてはいけない)と教えるが、親鸞様は(真実のひとかけらもない)この身の悲しさを教えて下さる。 
世間一般の教えでは(生き物を殺してはいけない)と教えるが、親鸞様は(生き物を殺さずには一日も生きていけない)この身の悲しさを教えて下さる。 
世間一般の教えでは(感謝しなさい)と教えるが、親鸞様は(それは、自分の欲望の満たされたことを喜んでいるにすぎない)この身の悲しさを教えて下さる。 
世間一般の教えでは(親孝行をしなさい)と教えるが、親鸞様は(一生、親に心配をかけ通しの親不孝者であった)この身の悲しさを教えて下さる。 
世間一般の教えでは(神や仏を大切にすれば、良いことがある)と教えるが、親鸞様は(それは、神や仏を自分の欲望に利用しているにすぎない)この身の悲しさを教えて下さる。 
世間一般の教えでは(差別をしてはいけない)と教えるが、親鸞様は(深い底なしの差別心をもつ)この身の悲しさを教えて下さる。 
藤場美津路
ここで世間一般の教えとは倫理や道徳のことです。これら世間一般の教えは子供でも知っていますよね。これらの教えを教えた私たち大人はどうかというと、どうでしょうか?これらの教えに従い、これらに従うことが正しい道として歩んでいるのが私たちですが、実際に実現できているかといいますとなかなか難しいですよね。
食べ物ひとつとっても、普段生き物のいのちは大切にしましょうといいながらも、そのいのちをいただかないと生きていけないという矛盾をかかえて、生活しているのです。
もちろん菜食主義者や精進料理のように肉や魚を食べなければよいという問題でもありません。野菜や植物だって大切ないのちです。私が生きている限り他のいのちをいただかないと、生きていけないという悲しい事実がそこにはあるのです。
わたしたちは尊いいのちをいただいて、生かさせてもらっているのです。
それなのに、飽食時代である現代は肉や魚や野菜はあたかも人間に食べられるためにあるような扱いをしている。テレビを見ましても、グルメ番組や大食い番組が大流行です。また最近の学校ではいただきますと言わないところもでてきたと聞きます。なんでも手を合わせるという行為が宗教じみているからだそうです。また給食費を払っているのだから、いただきますを言わないのはこっちの勝手だという声もあるそうです。そこにはいのちをいただいているという痛みいのちをいただかないと生きていけないという悲しみが全くありません。いただきますをいわなかったら、どんなに豪勢なご馳走であったとしても、それはエサです。もうそこにいるのは人間ではありません、畜生といっても過言ではないかもしれません。ちょっといいすぎましたでしょうか。
私が直接牛を殺してその肉を食べているのではありませんが、誰かが私の代わりに殺してくださっているのです。いや本当は私が殺させているのかもしれません。私たちが牛肉を食べたいと望んでいるから、毎日数え切れない牛が殺されていくのでしょう。最近は外食やインスタント食品など簡単で早くて美味しいものに溢れていますから、いのちをいただいているという意識が薄らいでいるのかもしれませんね。
また 普段なにげに飲んでいる薬も、その薬ができあがるまでに数え切れないくらいの動物実験が繰り返されているという事実があります。薬を飲む時も手を合わせたほうがいいのかもしれませんね。
最後に差別について書かれていますが、差別はいけないといいながらも差別しているのが私たちです。差別がない世界とはいったいどんな世界なんでしょうかね?差別のない世界を目指しながら、それがどんな世界なのかわかっていないのが私たちなのだと思います。自分の差別意識をどうにかできると思っているということは大変な思い上がりなのではないでしょうか。いくら努力精進して心を磨き清めていけば差別心というものはなくなるもなのでしょうか。また念仏すれば少しは変わってくるのでしょうか?
念仏しても差別意識は決してなくなりません。信心が深まれば深まるほど差別意識を消すことの出来ないどうにもならない我が身が知らされてくるばかりです。どうにもならないからといってそこで終わるのであったら親鸞聖人の教えなんかいりません。どうにもならないといって挫折するのでもなく、そこに居直るのでもないのです。どうにもならない悲しさに目覚めたとき、人は分かり合え、寄り添っていけるのです。どうにもならない身の事実において、他人の悲しみにであっていけるということがはじめてあるのです。お互い分かり合えることのできない者同士が、分かり合えない悲しみにおいてわかりあっていくということがあるのではないでしょうか。分かり合えないことを分かり合っていくということです。国と国の関係も同じです。今でも世界中のどこかで戦争がおこなはれています。戦争というと私たちはうっかり善対悪の戦いだと思ってしまいますが、実は善対悪ではなく善対善の戦いなんです。お互いに善を主張しているのです。お互いに相手が悪だと思っている。第二次世界大戦も負けた日本が悪で勝ったアメリカが善というわけではありませんね、お互いが自分の国や家族を守るために正義を主張し合い争っているのです。北朝鮮も自分は善だと思っている。特にアメリカは正義が好きな国で今でも戦争を続けていますね。お互いに善やら正義を主張していても決して分かり合うことができません。
正義の味方は悪者を退治するということが正義のもと正当化されるように、戦争では人を殺すことが正義なのです。正義を主張するまえに自分の国は本当に正義を主張できるような国なのでしょうか。アメリカだけが正義を主張しているのではないのです。日本がそして私たち一人一人がどうなのだと問われているのです。
本当の自分の有り様を知るというときはじめてそこにわかりあえない者同士がわかりあえないことをわかりあっていくことができるという世界があるのだと思います。分かり合うことのできない悲しみにおいて、相手に寄り添うことができるのです。また親子関係においても親が自分の子供のことだから自分が一番よくわかっているという時、実は親子関係が一番離れてしまっている状態なのです。わかっているというところに腰を降ろしてしまっている。自分は相手のことをわかっている、自分は正しいというときには、実は一番心が離れているのかも知れません。
どこで一緒かというと、私も愚かな者、みな愚かな者、愚かな者だなあと、そういうところでしか一つになれない。ところが反対やっとるんですね。賢くなって一つになろうと思うとる。賢くなったらもう終わりです。絶対に一つになれません。 
和田稠
善人ばかりいるから争いやけんかや戦争がおこるのでしょうし、親子関係も離れ離れになってしまうのでしょう。
矛盾をなくして解決していこうとするのが倫理道徳である
矛盾のまま
どうすることもできない
この身の事実に頭が下がっていくのが
信心である 
安田理深
どうすることもできない悲しみの身を生きているということに目覚めるところに本当に寄り添うということがあるのです。