2007年4月14日土曜日

念仏する人は 勝ち負けにとらわれない 世界を生きる

近年、格差社会が問題視されるようになってきました。「勝ち組」「負け組」なんて言葉もはやっていますね。しかしここでいう勝ち負けはほとんど金銭上での話です。IT長者がもてはやされ勝ち組の象徴とされています。どうせなら負け組より勝ち組のほうがいいですよね?どうでしょうか?勝ち組になることが本当の幸せでしょうか?


われわれ凡夫が幸せと思っている対象は、お金であったり、名誉であったり、旦那様であったり、子供であったりする。
 これらは皆持ち物である。一生生きていく上で、年齢と共に持ち替えてゆく持ち物であり、着替えてゆく衣装であって、肝心な持ち主そのものが忘れられていることに気づく。
 持ち物は無常なのだから、いつかいつかうつろい消えてゆくことは当然の道理。生が死に、愛が憎悪に、若さが老醜に、素直な子供が反抗する子供に、山と積まれた財産が借金へとかわるのは無常の世の当然の姿。
 そういうたかたのようなはかない持ち物に変わらぬ幸せを求めて追っかけていること自体が、初めから間違っている。ー中略ー
  要は持ち主の生き様である。持ち主である私自身の生きる姿勢が変わればよいのである。どう変わったらよいか。ひとことでいうと、「外に求めない」というこ と。地理的にいってどこかに、時間的にいって明日、来年、来世、という別のときに求めず、つねに、今、ここに姿勢を正して坐る、ということである。

「美しき人に」禅に生きる尼僧の言葉


勝ち組の象徴 だったホリエモン。彼はライブドアという会社でお金や地位を得ただけでなく、マスコミをはじめ政界までもがチヤホヤし名誉まで手にいれました。しかし皆さんもご存じのようにライブドアの粉飾決済疑惑によってすべてを失いました。これが上記の引用文でいう無常の世の当然の姿ですね。今日、勝ち組だった人も、 明日どうなるかわからないのです。しかし私たちは、お金や財産、肩書きや地位などに執着して、理想の「我」を目指し、またそれにしがみつきながら生きています。勝ち負けばかりにとらわれているところには本当の幸せ(本当の自己との出会い)なんかないのです。そこにあるのはお金や地位や名誉の鎧で身を固めた「我」しかありません。しかし、真のことば南無阿弥陀仏によって、それが本当の「我」(煩悩にまみれてこの険しい娑婆世界(勝ち負けの世界)でもがき苦しんでいる)の姿であると気づきかされるとき、その鎧がとれて、本当の「我」との出会いがそこにうまれるのではないでしょうか。それがありのままの本当の「我」です。煩悩にまみれてこの険しい娑婆世界でもがき苦しんでいる「我」ではありますが、そのままの「我」であって救われていく世界が、お念仏の世界なのです。