今年は猛暑でしたが、暑い日だけが続いたのでは木々は色づきません。紅葉が美しくなるためには、昼夜の気温の温度差が重要になってくるとか。温かいだけでもだめ。寒いだけでもだめで、両方の条件が揃うことによって彩りが鮮やかになるのです。どちらも必要な条件なのです。
私たちは自分にとって心地良い条件を求め、反対に心地良くない条件を遠ざけながら生きています。つまり自分にとって必要なものと必要でないものを分けて生きているわけです。喜びや楽しみは必要だけれども苦悩や悲しみは必要ない、なるべく遠ざけたいと。
仏教は苦しみや悲しみから救う教えではありますが、苦しみや悲しみを無くしてしまう教えではありません。苦しみや悲しみを大きな世界に目覚めるための縁としていただいていくのです。
そもそも喜びや悲しみとは二つに分けられるべきものではないように思います。例えば赤ちゃんを授かって、喜ばない人はいないと思いますが、子を授かったことによって育児に悩んだり、我が子の病や死とも出遇わなくてはいけなくかもしれません。また結婚するということは離婚することがあるかもしれないということです。私たちは喜びや楽しみを求めて行動しますが、結果として苦しむ原因をつくりだしているといえるのかもしれません。よく考えてみると喜びが苦しみに変わってしまうのであればそれは本当の喜びといえないのではないでしょうか。
喜びや苦しみといってもどちらも私の思いの中で「喜び」と「苦しみ」とに分けているのです。この二つに分けている「私」というものを問題にしていくのが仏教なのです。これまで一度も問題になることがなかった「私」、その自己とは何者か、そのことを問題とするのです。喜びの中からはなかなかそのことは問題になってきません。反対に思い通りにならなくなくなり、もうどうすることもできないという苦悩するところに問題になるのです。そして思い通りにならないところにその思い、自己というものが破られ、大きな世界へと目覚めるということがあるのです。
大きな世界に目覚めてみれば、苦悩や悲しみも大切なご縁であったのです。私にとって不必要だと思っていたものに意味を見出していくのです。苦悩や悲しみがあったからこそ、本当に大切なものに出遇うことができたと。そこに本当の喜びというものを賜るのだと思います。個人的な思いを超えた喜び、それがお念仏という声になって私たちの口から出てくださるのです。また同時にお念仏するところに苦悩や悲しみも受け止めていくことができるのです。
喜びも楽しみも苦しみも悲しみもどれが一つ欠けてもあなたではない。
あなた色に輝くいのちが今ここに生きている。