有名な「白骨の御文」は冒頭の
それ、人間の浮生なる相をつらつら観づるに、…
『御文』第五帖・16通 蓮如上人
という言葉ではじまりますが、人間の一生を浮生とおさえておられます。
川面に浮かぶ浮き草のようにつながるところもなく自分の思いに、また時代に翻弄されながら流され続けているのが私たちではないでしょうか。
よくもまあ ここまできて ようやく 地獄の闇が みえてきました それにしても 飛べない羽で よくもまあ とんでいたものです
石塚朋子
私たちは自分の羽で自分の羽さえあればどこまでも飛んでいけると思っていたのです。誰よりも高く誰よりも遠くへ。高さや距離を競い合い、勝ち負けを競い合いし疲れ果て、遠くへ遠くへとどこへ向かっているとも知らずにがむしゃらに羽ばたき続けボロボロになった羽。そのことにすら気づくこともなく落ちたらおしまいだと思い込み、もっと高くもっと遠くへと藻掻き苦しんでいる私たち。もうどうにもならなくなって力尽きて落ちてみたら、大地がこの身を受け止めてくれた。落ちてみてはじめて大地があることを知った。大地はいつもこの身を受け止める準備をしていてくれたのに、煩悩の雲が大地を見えなくさせていたのです。しかし自分で飛ぶ力がなくなって、だんだん大地に近くなっていってはじめて煩悩の雲をくぐることができるのです。私たちは思い通りに飛べるときは、大地の存在など目に入りません。しかしその人生に問題が起こってくる。それは病気であるかもしれないし、死を意識した時かもしれないし、仕事や人間関係に行き詰まったときかもしれません。そうなってはじめて立ち止まり自らの在り方を問うということが生まれるのです。
落ちたら終わりと思っていたら落ちた場所が実は生きていくべき場所だった。大地に立てたときそこにはじめて立てた本当の安堵感とそこに立つことができた喜びが生まれるのでしょう。その喜びの声がお念仏なのです。またその喜びだけでなく同時に石塚さんが「 それにしても飛べない羽でよくもまあとんでいたものです」といわれているように懺悔の心が生まれます。本当の自分自身の姿に頭が下がるのです。「どうしようもない我が身でした」と我が身を恥じ悲嘆するということが喜びと同時に起こるのです。お念仏には、お念仏の声の外側に歓喜、内側に懺悔という両面があるのです。
こんなちっぽけな私を受け止めてくれていた、それが有り難いのですね。
大地があれば何度でも立ち上がることができます。
また何度落ちたとしてもまた立ち上がることができます。
悲しみや苦しみと共に生きていく勇気をいただくのです。