節分になると「鬼は外、福は内」と豆まきをしたり縁起を担いで恵方巻きを食べたりするのが、恒例となっています。私の地方ではあまり恵方巻きを食べる習慣はあまりありませんが、2歳になる私の娘は「鬼は外♪福は内♪」と無邪気に歌っています(笑)人はなにも節分の日だけ「鬼は外、福は内」という生き方をするのではなく、人間という存在そのものがそういう生き方をしているのではないでしょうか。私たちが意識しようがしまいが、365日節分のような在り方をしてしまっているのです。自分にとって都合の悪いことをできるだけ遠ざけ、自分にとって善い条件をできるだけ集めるという、そういう在り方を仏教では罪福信という言葉で教えてくれています。善いことをすれば幸せになり、悪いことをしたら不幸になるという考えを信じ込んでいるのです。ですから自分にとってのマイナス材料をなるべく減らし、プラス材料を積み上げて幸せになろうとするのです。歳を重ねるごとにマイナス材料が増えていくような気がするのですが…とにかく自分にとって損か得か、善か悪か、苦か楽かというように自己中心的な視点からしか物事を見ようとせず、またその事が苦しみの原因とも知らずに生きているのが私たちです。
私は大学に入ってはじめて仏教を、また親鸞聖人の教えを本格的に学びました。修士課程まで進み、少し親鸞聖人の教えがわかったつもりになっていた私は「鬼は外、福は内」とご都合主義的な生き方をしている世間の人を見下していたところがあったのではないかと今になって思われます。自分は念仏の教えを学んだのだから「鬼は外、福は内」という生き方から少し離れたところで生きていると勘違いしていたのです。口では自らを凡夫(鬼)といいながら、本当にそういう生き方をしている自分を直視するということがなかったのでしょう。ですからいつも自分のことを棚にあげて他人の生き方を裁いてばかりいて、実は私こそが「鬼は外、福は内」という生き方をしてることに気づいているつもりで気づいていなかったのです。他の誰でもない私こそ休むことなく今この瞬間も「鬼は外、福は内」という自らの幸福のみを願って共に生きるということとはほど遠い生き方をいつのまにか生きてしまっている私だったのでした。念仏するとそういう生き方から無縁になるのではなく、念仏の智慧によっていよいよ「またいつのまにか自分勝手な幸せを願っていた鬼だったなぁ」ということに気づかされていくのです。
また念仏によってそういう自分から目を離すことが出来なくなるということは、ある意味悩みが増えるということかもしれません。しかし悩みが増えたということは、今まで問題になってこなかった自分の生き方に問いをもつようになったからに他なりません。念仏の智慧によってかえって悩みや問題が見出されてくるのですが、それは同時にそこに仏さまがはたらいておられる証でもあります。
確かに親鸞聖人の教えに学んだ人は豆まきをしなくなるのでしょう。しかしそれは念仏の教えを聞いているからといって豆まきをしないから自分は大丈夫というところに安住しているだけなのかもしれません。今はそういう縁はないかもしれないけれども、いざ自分がそういう立場になったら、やはり福を願ってしまうのが私たちです。 だからといってそこに居直るのであれば念仏の教えは必要ありません。自らを問題とし、信を問い直すという視点が念仏者に育てられていきます。悩みや疑いを縁として信心というものを掘り下げて行く、それが念仏者の生き方であり、鬼が鬼のままで救われていく道なのです。