2010年1月2日土曜日

白い息 残る足跡 冬は見えない世界を 教えてくれる

突然ですが、私は冬が好きです。気温が下がり、身が縮こまり、外に出たくなくなるような憂鬱な寒い日が続くのですが、私はその寒さに身が引き締められ、冬の澄んだ空気のように私の精神も研ぎ澄まされていくようで好きなのです。特に学生時代を過ごした京都の冬はほとんど雪が積もることはありませんでしたが、とにかく空気が冷たく、皮膚に風が突き刺さり、親鸞聖人の比叡山での修行を思い起こさせられるような厳しさでした。しかし冬は厳しさばかりではありません。現在の居住地である故郷金沢の冬には厳しさだけでなく、やさしさも感じる時があるのです。北陸の冬は太平洋側ほど乾燥しないからということもありますが、一番大きな原因は雪が降るということにあると思います。雪が降らない地域の方は信じられないことかもしれませんが、雪の積もった日は温かいのです。雪が降るのですから、実際は気温が低いのですが、不思議と温かく感じるのです。まるで街全体が雪の布団をかぶっているかのようです。ビルも家も道路も山も木々もすべて別け隔てなくすっぽり覆ってしまう様に歎異抄の「弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばれず」(『歎異抄』第一章)というお言葉を思い起こされます。


冬は普段目に見えないものを見せてくれます。

・「白い息」
気温が低くなると、吐く息が白くなり、普段見ることのない 吐息の動きを見ることができます。私たちは普段当たり前のことのように、一息一息、意識することなく息をしています。「白い息」に私が意識していようがしまいが息をし呼吸をしているということに気づかされます。私たちは自分の力で生きているように思っていますが、私が頑張っているから生きているわけではありません。そもそも自分で生まれようと思って生まれてきたわけではないですし、私が頑張っているから心臓が動いているわけではありませんし、呼吸をすることができるというわけでもないでしょう。私が頑張らなくても寝ている時だって休まずに呼吸をしてくれています。
私は以前、過呼吸という病気になったことがあります。この病気は血中の酸素濃度の上がりすぎることによって発症するのですが、全身が痺れ意識が遠のき、とにかく息苦しくて、息を吸っても吸っても苦しくて呼吸を意識すればするほど、上手く呼吸ができなくなり、パニックに陥ってしまうのです。普段当たり前にしている呼吸がこんなに難しいなんて!それと同じでいのちを 自分のものと私有化すればするほど、人生に苦しむことになるのではないでしょうか。


・「残る足跡」
雪が積もると普段見えない足跡が残ります。普段目に見えませんが、先人の大変なご苦労の上に私たちの生活があることを思い出させてくれます。迷い、苦悩し、命をかけてこられた末に今の私たちがあるのです。同じように、今ここにお念仏の教えが伝えられているという背景には、親鸞聖人をはじめ、お釈迦さま、過去無数の諸仏、名もなき無数の念仏者のご苦労があるわけです。そのご苦労を戴いていくのが念仏の教えであると思います。それは従果向因の教えであるといえます。世間の教えの延長で称える念仏は従因向果なのでしょう。 つまり念仏する(因)ことによって救われ(果)とする。それでは念仏が手段になってしまいます。そうではなく、今思わずでてきてくださった念仏の一声 (果)から法蔵菩薩のご苦労(因)に遡っていくのです。果を求めて努力するのは自力の道であり、他力とは因を戴いていく道なのでしょう。

「お陰様」という言葉がありますが、因を戴いていくところから出てくる言葉だと思います。それは文字通り目に見えない「陰」を戴いていくということでありますが、同時に見えない世界に支えられている私であったと気づいていくということです。私たちは物事が自分の都合よくいった時や何事もなく無事である時によく「お陰様」という言葉を使いますが、自分の思い通りにいった時は誰だって「お陰様」と言えるのです。思い通りにいかない時でもそう言えるでしょうか。

思い通りにならない自分をも支えてくれているものがあるということに気づけた時、はじめて本当の意味での「お陰様」ということがあるのではないでしょうか。

目に見える世界は目に見えない世界に支えられています