前々回の掲示の説明文の結びの言葉を今回の掲示の言葉とさせていただきました。
仏教ではこの世は縁起の法則によって成立していると説かれます。縁起とは、因縁生起の略で、世界のあらゆるものは、因(原因)や縁(条件)によって生じているということをあらわします。すべてお互いに結びつきあっており、それぞれが単独で存在しているのではなく、お互いが原因となり、また条件となり、そして結果となって、仮に和合して今存在しているというのです。そのことを、別の言葉で言い表すと無我といいます。「無我」、つまり「我」がないということは固定的な、単独で存在する「我」がないということです。仏教ではこの「我」というものを「常一主宰」と言い表します。つまり私を主宰する私、客観的に自分を見ている固定的かつ単独で存在している私とでもいったらいいのでしょうか。ですから「無我」とは、そういう「私」は存在しないのだということです。「仏法には無我にて候」と蓮如上人が言われるように無我の教えは仏教の核となる教えであります。
そうは言っても、私たちは「我」が無いということを信じられませんし、認めたくもないはずです。生まれてから、これまで大切に可愛がり、成長させてきた 「我」が否定されるということは、これまで生きてきた、そして今生きている自分自身が否定されることになってしまうからです。また「いったい何のために生きてきたのか」ということになりかねません。そしてその可愛がり続けてきた「我」が死によって消滅してしまうことを恐れ来世に期待する。生に執着するということは、そのまま死を恐れていることを意味します。いつも言いますが「ご冥福をお祈りします」「天国でも元気でね」とあたかも死後も「我」が存在するか のような発言をしてしまうのは無自覚であるかも知れませんが、死者の「我」ではなく自分の「我」が消滅してしまうことの恐れからくるものだと思います。少し前に「千の風になって」という歌が大ヒットしましたが、その背景にも「我」の消滅の恐れがあるのではないかと思われます。ここではっきりいいますが「千の風になる私(我)もあなたもないのです」(笑)
また反対に、死んだら終わりと開き直る場合もありますが、これもまた死んだら消滅してしまう「我」が存在することが前提となってしまっているのです。「我」が存在しなければ消滅する「我」というもないはずなのですから。
このように本来、私たちは不生不滅のいのちを生きています。それは生まれる「我」もなければ、滅する「我」もないといことです。無限の広がりをもった、限りないいのちの営みとして生まれ死ぬのであり、今私があるのは無数の関係を縁として存在するのであって、単独で存在しているわけではないのです。縁あって生まれ、縁あって生き、縁尽きて死す。生まれるのも、生きているのも、死ぬのも縁次第なのです。
世尊、我、宿(むかし)何の罪ありてか、この悪子を生ずる。世尊また何等の因縁ましましてか、提婆達多(だいばだった)と共に眷属たる。『仏説観無量寿経』
これは王舎城の悲劇の中の一文です。王舎城の悲劇とは簡単にいいますと、国王である頻婆沙羅(びんばしゃら)とその王妃である韋提希(いだいけ)の子供である阿闍世(あじゃせ)がお釈迦様の従兄弟であったともいわれる提婆達多(だいばだった)にそそのかされ父親である頻婆沙羅王を殺して王位についてしまったのです。その殺し方が、牢屋に幽閉して食べ物も飲み物も与えないようにしたのです。韋提希夫人は見つからないように、自分の身体に蜜を塗り、身につけてい る装飾品の中に飲み物をいれて、牢の中に運んでいたのですが、いつまでも頻婆沙羅王が元気なのを不審に思った阿闍世にとうとうばれてしまったのです。そして今度は、韋提希自身が子である阿闍世から殺されかかるのですが、家来に止められて結局、韋提希も牢屋に閉じこめられてしまうのです。苦悩の真っ直中で韋提希はお釈迦様に救いを求められます。その時韋提希が号泣しながらお釈迦様に愚痴った最初の言葉がこの一文になります。
私たちはいつも自分に都合のいい関係を求め、築きながら生きています。そして「私には関係ない」と自分に都合の悪い関係からはなるべく離れ、関わらないよう にしているはずです。韋提希にとってこの悲劇が起きるまでは、阿闍世の出生時の問題などいろいろ苦悩があったでしょうが、それなりにいい親子関係だったのでしょう。ところが、この悲劇で悲しみ苦しんでいる韋提希は「なんで私はこのようなことをしでかすような子と提婆達多との関係を生きなけれいけないのか」 と愚痴っているのです。
しかし親子といいましても、よく言われるように、親というのは子がいてはじめて親にしていただいているわけで、単独で親というものは成り立ちませんし、当然子も成立しません。ですから、阿闍世なしでは韋提希が成り立たちません。阿闍世がいてもいなくても、韋提希は韋提希だというわけにはいかないのです。阿闍世もひっくるめての韋提希なのです。
同じように今を生きる私たちも私が私として単独であるわけではなく、自分にとって都合のよい関係の人とも、都合の悪い関係の人とも、一見無関係に思える人と も複雑に絡みあいながら存在しているのです。そうなると私の救いというものは、一切の人が救われることが成り立たないし、人を害することは私を害すること であり、私を害することは人を害することになるのではないでしょうか。そこに現代人が見落としてしまっている大切ないのちの事実があるように思われます。「殺すのはだれでもよかった」そこまでいかなくても「自分さえ幸せになればいい」親子間であっても、自分の役に立たたなくなったら邪魔者扱い。また数年前には「そんなの関係ねぇ〜」なんて言葉も流行しましたね。これらはすべて私たちが単独でバラバラに存在しているという思いこみからくるものです。関係存在を生きている私だと知る時、自分自身の在り方に出遇う時、他者に存在の意味が見出されてきます。そして同時に私が今こうしてあることに限りない恩徳を知らされるのです。さらにその関係は現在において横へ横へとつながっているだけでなく、時間軸つまり過去未来という縦方向にも無限につながり合っています。ですからその関係は現世と死後の世界で分断されるものではなく、生死を超えてつながりあっているのです。
何度も言うように不生不滅、つまり私たちは本来無我なのですから、死ぬ「私」もないのです。無数のご先祖様もひっくるめて、関係存在として、様々な縁をたまわり、私としてあるのです。ご先祖様がたった一人欠けたとしても今の私はあ りません。そこに現在の私を成り立たせているものとしてご先祖様にも意味が見出されてくるのです。
また反対に私に関係するものが成り立つということは、私にもまた存在する意味があたえられているといことです。しかも無条件で。
すべての存在、出来事に意味が見出されて、お互いがお互いを輝かせあうことのできる世界、それを浄土と呼ぶのです。それを見失って生きる私たちに仏様はいつも呼びかけてくださっています。「あなたはあなたとして本当のいのちを生きてほしい」と。
人身(にんじん)受け難し、いますでに受く
「三帰依文」
この身にいただいているいのちの尊さにどうか目覚めてください。