浄土真宗の通夜や法事の席での法話ではよく「諸仏になられたご先祖様に願われている」などと語られていることを耳にするのではないでしょうか。これはもちろん大切な人が亡くなられたことを美化して「亡くなったら浄土で仏様になったのだ」という乱暴な話ではありませんし、どうせ私たちには死後のことはわからないので浄土真宗では「そういうこと」にしている(笑い)ということではありません。それでは、ここでいう「諸仏」とは一体どういうことなのでしょうか。
まず最初に押さえておきたいことは、諸仏とは私たちが将来「なる」ものではなく「見出す」ものであるということです。大切な人の死というものを通して、はじめて自分というものが問題になってきた。そしてはじめて仏法というもに出遇い、さらに仏法を喜ぶ身となった、その時はじめてその仏縁を結んでくださった亡き人を諸仏として見出すということが起こるのでしょう。これは仏の智慧によって諸仏が見出されたということです。
智慧浅くして暗闇を生きる私たちは、ご先祖さまといっても、自分にとって都合の通りいっている時は「ご先祖さまのおかげです」と「守護霊」や「諸仏」にな り、都合の悪くなると「先祖の祟りだ」と「悪霊」や「鬼」になったりするのです。その時の状況次第で評価が変わってしまうのでは、ご先祖様もたまったものではありませんね。
これはご先祖さまだけにおける話だけではなく、今いっしょに生活している周囲の人に対しても同じです。私たちは「あいつのせいで…」「あいつさえいなければ…」と周りに鬼をつくりだしながら生きています。まさに渡る世間は鬼ばかりですね。
そんな生きかたをしてきた私であったけれども、仏の智慧によって鬼をつくりだしている原因は私にあった、苦しみの原因は私にあった、実は私こそが鬼であった と気づかされていくのです。自分が鬼であったときづかされる時、諸仏が見出されるのであり、自分が鬼であったということを気づかせてくれる縁となってくだ さっているひとを諸仏というのでしょう。実は私が気づいていないだけで、無数の諸仏のお育ていただいていたのです。諸仏と出遇ってはじめて仏法が私への呼びかけになるのです。
諸仏が見出されるところに本当に人が人として人に出遇っていける世界が開かれてきます。またそれは同時にご先祖様にも本当に出遇っていける世界なのです。そういう世界を浄土というのでしょう。自分には関係がない、また鬼であるとさえ思っていた他人の存在に意味が見出され、共に生きて行くことができる。さらに願いとして働き続けてくださっているご先祖さまにも、念仏にその願いを受け止めるところに出遇っていけるのです。
自分自身に出遇う時に、人にもご先祖様にも出遇っていけるのです。