先日の新聞に厚生労働省が公表したがん対策推進基本計画の中間発表が記載されていました。
「厚生労働省は15日、がん対策推進基本計画の中間報告書を公表した。2007年度からの5年計画がどれだけ進んだかをまとめた。
「75歳未満のがんによる死亡率を10年間で20%減らす」という全体目標については、3年間で6%減少しており、おおむね順調と評価した。
一方、「がん患者と家族の苦痛軽減と、療養生活の質の維持向上」というもう一つの全体目標については、達成度を評価する尺度がないことを指摘。評価指標 を早く設定することや、患者の経済的負担の軽減にも取り組むことを求めた。
予防面では、未成年の喫煙を3年以内になくす目標が達成できていない。また、子宮頸(けい)がんワクチンの接種などを国として積極的に推進すべきだとした。」
この発表によるとガンによる死亡率は減少してきているよう です。一昔前はガン=死のようなものでしたが、目覚しい医療の発展により、生存率が上昇し早期発見さえできればそれほど恐れる必要がなくなってきているのかもしれません。しかしこれはあくまでもガンによる死亡率の話であって私たちの死亡率は100%なのです。
誰でもガンになんかなりたくありません。もしガンにな れば誰もがガンを克服したいと願うことでしょう。それに応えてくれるのが医療であり医学なのです。その恩恵により寿命も延び日本は世界に誇る長寿国となりました。しかし長寿になることでガンの発症率は上昇しているのかもしれません。現代より短命の時代では恐らくガンが発症する前に寿命が尽きていたであろうと思われますし、たとえガンを克服したとしても長く生きるほど今度は再発や転移などの恐れがあるからです。つまり何を言いたいのかと申しますと結局死から逃げ切れ無いということです。ガンの人はガンを克服できた時「助かった」とか「救われた」と表現されるでしょうが、それは本当に助かったことにならないのです。よく言って元の状態に戻っただけで、また他の病気になるかもしれませんし、再発する可能性だってあります。今度は脳梗塞で倒れるかもしれません。生き残ったことによって、別の病気と付き合っていかなければならなくなるかもしれないですし、病気にならなくても事故に合うかもしれません。このように病気 になった→助かったを繰り返し一喜一憂しているのが私たちです。しかし死からは逃げ切ることは不可能ですから、結局助からなかったということになるのでは ないでしょうか。生こそすべて、それも健康で生きがいのある生こそが私だと生きている人にとって死とは敗北であり絶望でしかありません。
生のみが我等にあらず死も亦我等なり我等は生死を併有するものなり
清沢満之
普段、生のみを私として生きています。だから死とは私が死ぬということですから死を未来のこととし、今の私にはとりあえず関係のないこととしてしまっているのではないでしょうか。しかし生と死はコインの裏と表、 ドアの内と外のように、本来生死一如であって死を離れて生というものは成り立たないはずです。しかし生こそすべて、生こそが私と生きています。それではその私という者とは一体何者なのでしょうか。いずれ死する私という立場から生というものを受取り直してみると、これまでとは違った生の姿がみえてくるかもしれません。
また私たちは、生とは自分が生まれるということであり、死とは自分が死んでいくことであると、そういう「思いの中の生死観」を創造して自分を人生の主人公としその主人公である私の思いを大切にして生きているのではないでしょうか。賜ったいのちを自分のものであると握りしめて苦しんでいるのが私たちなです。この世に生を受けた身体は老い、やがて病み、そして死すということは頭ではわかっているつもりでも、思いはそれらを受け入れることが出来ないのです。自分というものをどう受け取っていけばいいのか分からないのです。人生が思い通りにいっているときはそのような悩みは起こってこないはずです。しかし受け入れがたい事実に直面した時に苦悩というかたちで私とは一体何者であるのかと問わずにはおれなくなる。そういう宗教的歩みを苦悩をとおして促してくるはたらきを本願といいます。
私たちの願いといえば例えば無病息災であったり交通安全といった独りよがりの願いです。自分さえ、自分の家族さえ助かれば、隣の家がどうなっていようが関係ないのです。自分の病気さえ治れば満足なのです。しかし、そのような個人的な満足では本当に満足できないのがいのちを私たちは生きています。個人的満足を求めて生きている私たちですが、本当に満足できるものに出遇いたいといのちの根底では願っているのです。個人的な思いや願いを破るものに出遇いたいのです。
命がいちばんだと思っていたころ生きるのが苦しかったいのちより大切なものがあると知った日生きているのが嬉しかった
星野富弘
自分が可愛いただ それだけのことで 生きてきたそれが深い悲しみとなったとき ちがった世界が ひらけて来た
「回心」 浅田正作
どちらの詩も自分より大きなもの、自分を包み込むような大きな世界にであい、自分の思いが破れた時の感動を詩にされたのだと思います。普段私たちは、男の世界、女の世界、大人の世界と子供の世界いうようにいろいろな世界をつくりあげて、他の世界のものには自分のことなんかわかるまいと自分の世界に閉じこもって自分の世界を、思いを守ろうとしています。いやそんなことはない。私は何事に対しても精一杯努力をして一生懸命がんばって生きているのだと主張される方もいらっしゃるかもしれません。しかし私たちの努力とは自分の世界の中の努力であって、その努力が評価されなかった時、なんのために…となりかねません。結局のところ自分の思いを一歩もでていないのです。そして 念仏でさえも自分の思いの中で称えてしまっているのです。念仏して助かったと思ってみたり、こんなことで本当に助かるのかと思ってみたり…自分の思いの中で一人相撲をとっている、そういう自分の思いの中の世界こそ私だと思っていた。思いがけず、自分の思いが破れ、自分、自分と主張してきた狭い世界を出た、そこにそんな自分をも包みこむような大きな世界が広がっていたのです。しかも自分だけではない、みんないたのです。その世界を阿弥陀の国といい、浄土というのでしょう。この世界に立つとき、そこから私たちの人生というものが見直されてくるのだと思います。生死の中で、自分の思いのなかでこれが自分だと生のみに執着し自分というものが受け止められず苦しんでいる私たちですが、生死を超えた世界から人生を受け止め直すことによって生死を貫いて歩んでいくことができるのではないでしょうか。
自分の思いでは自分を受け止められないが、そんな自分が仏さまに受け止められていたのです。