現世をすぐべき様は、念仏の申されん様にすぐべし。念仏のさまたげになりぬべくば、なになりとよろずをいといすてて、これをとどむべし。いわく、ひじりで申されずば、め(妻)をもうけて申すべし。……ひじりで申されずば、め(妻)をもうけて申すべし。妻をもうけて申されずば、ひじりにて申すべし。住所にて申されずば、流行して申すべし。
『和語燈録』法然上人
法然上人は念仏を称えることのできるような生活を送りなさいとここでおっしゃっています。結婚したら念仏を称えられるようになるのであれば、結婚すればいいのですし、反対に独身でないと念仏できないのであれば独身でいなさい。どんな生活をしていても、そこに念仏があり、念仏中心の生活が送れるのであれば、それでいいのですよと。
私たちは念仏中心の生活を送っているでしょうか?
念仏中心の生活すなわち「念仏の生活」ではなく「念仏も称える生活」になってしまっているのではないでしょうか?もちろん念仏することもあるけど、神様でも仏様でもお参りできるものであれば何にでもお参りし、 あっちのお寺もお参りしたし、こっちのお寺にもお参りした、とお参り自慢。ここにはこんな御利益がある、あそこではこんな御利益もあると、うまい話がある方へふらふらと、自分の都合で手を合わしたり、合わせなかったりとこんな具合ではないでしょうか。結局そこには念仏「も」あるけど、別に念仏でなくてもいいような気がします。
このようにいろんなところに頭を下げに行くということはありますが、頭が下がるということがなかなかありません。頭を下げるというのは「お願いします」と自分の都合で下げているだけですから、思い通りにならないとすぐに頭を上げてしまいます。頭が下がるというのは自分の都合で下げるのではなく、自然と下がるということです。頭を下げる対象を外に求めていくのではなく、視点を内側すなわち我が身に向けることによって知らされた我が身を知ることなしに頭が下がるということはありません。つまり仏智によってはじめて知らされたどうしようもない我が身を知るときに、その事実にはじめて頭が下がるということが起こるのです。そして頭が下がるところにはじめて念仏中心の生活がはじまります。頭が下がったら終わりなのではなく、ようやくスタート地点に立てたということです。救いというともうゴール地点に到着していることのように想像してしまいますが、実は今ここから念仏の生活がスタートしていくのです。
頭が下がるのは自然に下がることだといいましたが、反対に頭が上がるのも自然に上がってしまうのが私たち煩悩具足の凡夫なのです。いつの間にか気づいたときには、上がってしまっています。例えば私が誰かを怒るというような時、怒る前に怒ろうかな、怒らないでおこうかなと、考えてから怒るのではなく、腹が立って気づいたときにはもう怒ってしまっているように。 怒った後に怒ったことに気がつくようにいつの間にか上がってしまっているのです。その上がってしまった頭に気づかせてくれるのも仏智であり、その気づきを深めていくのが念仏者の生活なのです。そういう念仏そのものが歩みとなる生活を「念仏の中にある生活」というのです。
反対に「生活の中の念仏」というのは、やはり我がはからいによって称える念仏をいうのでしょうか。
念仏には無義をもって義とす
『歎異抄』第十章
念仏は意味がないのが意味だと、ここで言われています。私たちは、ついつい念仏に自分にとって都合の良い意味や結果を期待してしまいますが、自分にとって都合の良い意味なんてないのです。我がはからいによって称えるお念仏には自分にとって都合の良い結果を期待してしまいますが、「無義をもって義とす」とあるように念仏とは、我がはからいなのではなく如来の御はからいなのです。だからそれを他力というのです。
金子大栄のお母さんが健康を害し臥しがちな時に、「お念仏を申してもお慈悲が喜べない」のはなぜだろうという次のような手紙を息子である金子先生に送っておられます。
「…さて”御慈悲を喜ぶ心が起こらぬ”という御歎きですが、それは病める身には御尤もの事に存じます。私たちの心は苦しい時には苦しいだけであり、悲しい時は 悲しいだけにしか出来ていませぬ。生きたいときには生きたい心で一杯であり、死にたくない時には度くない心で一杯であるのがありのままの相であります。その心の中へお慈悲を喜ぶ心を注ぎ込もうとしたり、その心を転じて有難い心になろうというのが無理といわねばなりませぬ。されば”唯せつなまぎれ”にてもお念仏の申さるることが有難いのであります。御慈悲を喜んでお念仏を申すのではなく、お念の仏申さることが御慈悲であります。せつなまぎれの中からも、お念仏の申さるるが御慈悲であって、それは母上の御計らいではありませぬ。凡夫の”せつなさ”に御慈悲がまぎれこんでお念仏となって下さるのです。されば、お念仏を申して有難うなるのではありませぬ。お念仏の申さるることが有難いのであります。お念仏の申さるることの外に有難いことがあると思わるるは計いであります。称える心は如何ようであろうとも、称えらる、お念仏が浄土へ送り届けて下さるのであります。近くに居りませぬこと不幸の至りですが、たとえ御側に居りましても、これだけのこと以外に申上ぐるようもありませぬ。よくよく御覧の上、猶、御不審にて落ちつかぬ点もあらば、また御知らせて下さい。またまた申し上げます。十月十六日(昭和八年)大栄(五三歳)」母上様(七一歳)
『なむの大地』新潟仏教文化研究会編
念仏の生活を送られていたであろう金子先生のお母さんですが、「お念仏を申してもお慈悲が喜べない」のはなぜだろうか、どのように念仏すれば、お慈悲を喜べるのであろうかとお尋ねになっておられます。そのお尋ねにはお慈悲を喜ぶという結果を期待して念仏してしまっておられることがうかがわれます。つまり病気で苦しんでいるうちにいつのまにか我がはからいによって念仏を称えてしまっていたのです。
その切実なる問いに金子先生は「御慈悲を喜んでお念仏を申すのではなく、お念の仏申さることが御慈悲であります。」と答えられています。何かを期待してお念仏するのではなく、病気で苦しんでいるその中にあってもお念仏がでてくるということが如来のお慈悲なのですよとおっしゃられます。またそこにでてくるそのお念仏は、お母さんのはからいの念仏ではないのですよとも。
私たちは自らのはからいによって念仏にケチをつけたりして しまっているのではないのでしょうか。こんな念仏では駄目だ、もっと有難くいただかなければだめだというふうに。
ご恩徳
いつもお念仏の外に居る外にいるのに内に居るこんなおかしいことはないこんな不思議なことはない
外にいるのはわたしの性(しょう)内に居るのはご恩徳ナムアミダブツのご恩徳
ナムアミダブツナムアミダブツ
『念仏詩抄』木村無相
たとえ我がはからいによって称えるお念仏であったとして も、そのような私だからこそ、そんな私をも包み込んで離さない、それがお念仏のはたらきなのでしょう。仏の声に耳を塞ぎ続けていた私でしたが、不思議としか言いようがない仏のはたらきによって、聞こえるはずのない私の耳に今、仏の声が届けられている。その声を聞く時に、お念仏の外にいるとしかいいようのない我が身に気づかされるのであり、同時にそんな私をも内に包み込んでくださっているところに、恩徳を感じられていくのでしょう。だから念仏の中にある生活とは如来の恩徳を感じながら生活していくことをいうのだと思います。
しかれば、大悲の願船に乗じて光明の広海に浮かびぬれば、至徳の風静かに衆禍(しゅか)の波転ず。すなわち無明の闇を破し、速やかに無量光明土に至りて大般涅槃を証す、普賢の徳に遵うなり。
『教行信証』行巻・親鸞聖人
悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没(ちんもつ)し、名利の太山に迷惑して、定聚(じょうじゅ)の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快(たの)しまざることを、恥ずべし、傷むべし『教行信証』信巻・親鸞聖人
ここに『教行信証』から二箇所引文してみました。
注目していただきたいのは、「海」という文字で、行巻では 「光明の広海に浮かぶ」とあり、信巻では「愛欲の広海に沈没し」と一見矛盾したことを言っておられるようにみえますが、これは一体どういう関係になるのでしょうか。すでに念仏を与えられているにもかかわらず、海のように広くて深い煩悩によって、深く深く沈んでいるどうしようもない我が身の事実を光明すなわち仏智によって気づかされるのです。煩悩をなくして「光明の広海に浮かぶ」のではなく煩悩をなくす望みすらない事実がどんどん明らかになり、その事実を知れば知るほど、恥ずべき身であることを知らされるのだと思います。そしてその光明は無碍光、すなわち光のはたらきが無碍なのですから、海のように広くて深い煩悩をもった凡夫の事実に、仏様もやはり海のように広く深い悲願をもってどこまでも寄り添い、応えていこうとされているということになります。だから「愛欲の広海に沈没」している身に気づくということはそのまま「光明の広海に浮かぶ」といことになるのでしょう。
罪障功徳の体となるこおりとみずのごとくにてこおりおおきにみずおおしさわりおおきに徳おおし『高僧和讃』親鸞聖人
氷が溶けたら氷がなくなってしまうのではなく水となるよう に、煩悩がなくなってしまって、それから功徳になるのではなく、その煩悩があるからこそそこが摂取不捨の光明はたらく場となり、煩悩の身のままで仏の徳をその身に賜るのです。そこに生きていく方向が転換され、定まり、どんなことがあろうともお念仏と共に歩んでいけるという新たな生活が開かれてくるのでしょう。
最初に法然上人のお言葉をご紹介しましたが、それは念仏できる生活を求めていきましょうということではなく、もうすでにお念仏の中に生かされて生活しているのですよ、そのことに気づいていきなさいということなのだと思います。その気づきを信心といい、信心の表白がお念仏なのでしょう。もう死にたくなるほどに苦しい時も、また悲しい時であっても、どんなことがあろうともお念仏と共に苦しみも悲しみも受け止めていくことができる、それこそ他力のお念仏の功徳で あり、生活内容なのだと思います。そこに生活の問題が、そのまま仏道たらしめるというということがあり、また生活の中で起こることのすべてに意味が見出されてくるのです。
生活の中で起こってくる問題や悩みが消えてなくなってしまうのではなく、それらを縁として、さらに信心を掘り下げていく、そういう自身を問うていく歩みこそ仏道というものなのでしょう。そのことを親鸞聖人は
信順を因とし疑謗を縁として、信楽を願力に彰し、妙果を安養に顕わさんと。『教行信証』化身土巻
といいあらわしておられます。
私たちは、「生活の中に念仏があるのではなく お念仏の中に生活があるのです」というと「生活の中の念仏」をやめて「お念仏の中に生活」を目指していこうとしてしまいがちですが、「生活の中の念仏」であってもそのまんま「お念仏の中に生活」であると気づかされていくのです。「生活の中の念仏」は「念仏の中の生活」の内容の一部であるから。