「我 思う、故に我あり」はデカルトの言葉としてとても有名ですが、仏教の視点からみるといささか疑問が残らざるを得ないように思います。仏教は本来「無我」を説く教えですが、このデカルトの「我思う」の「我」という固定的な自我が存在することを前提とした考え方です。私たちは実体的な自我があるものだと思い込んで、それを主体とする我の奴隷として我を握りしめて人生を歩んでいるのです。そしてさらに我の肯定という考え方では死後においても主人公である私が死んで消滅してしまうことは、とても恐ろしくて認めることができませんから、身は滅んでも霊魂というかたちで存在するものと考えます。
「先祖の霊の祟りだ」とか故人に対して「今ごろ天国で大好きだった〜をしているこだと…」「あの世で元気にしてますか?」など一般に使われるこのような言葉も固定的な自我の肯定が前提となっています。それでは死んだら終わりなのでしょうか?答えはノーです。死んだら終わりだということもまた固定的な自我の存在が前提になっています。実体的なものがなければ、終わることできませんから。ですから死んでもまだ終わらないんだという考え方も死んだら終わりなんだという考え方も共に固定的自我があっての話なのです。
それに対して、無我の教えを説かれたお釈迦さまは「不受後有」と来世の存在をきっぱりと否定されました。無我すなわち実体としては存在しないが、因縁として 今存在している、つまり常に「今」しか問題にしていないのです。死後のことは全く問題にしていません。常に今を生き続けるのです。これを「永遠の今」とか 「絶対現在」といいます。
その「今」の私を支えてくれているのが仏の寿(いのち)です。例えば「死にたい」という思いが起こったとします。頭の中で起こった自殺願望も我という主体が起こした思いではなく、思いとして存在するだけなので本当はその思いに振り回される必要はないのです。頭の中で「死ななくてならない」「死ぬしかないんだ」と決め込んでいるだけで、心臓や肺などの臓器や手足は決して死にたいなどと思っていないはずです。心臓は私たちが起きている時も寝ている時も、その存在を意識しなくても動いていてくれているのです。頭で「生きなければならない」と思い続けているから生きているわけじゃないでしょう。ですから反対に「死ななければいけない」という思いにも振り回される必要はないはずです。我があれこれ思う以前に私の思いを超えてすでに仏のいのちに生かされ生きているのです。
往生というは『大経』には「皆受自然虚無之身無極体」と言えり(『教行信証』 真仏土巻)