2008年8月12日火曜日

ほら 目をあけてごらん いのちが輝いているよ


前回掲載した詩からの抜粋です。
この詩は現在10ヶ月になる我が娘を見ていて思いつきました。
赤ちゃんは一日一日、いや一瞬一瞬を精一杯生きています。

手足をバタバタさせて、まるで手足が動かせることを精一杯よろこんでる様。
ただのお茶を本当に美味しそうに一口飲んでは「ぷはーっ」と声にして感動。
ただ立ったり座ったり、ただ歩るけることが楽しく、転んでも何度も何度も繰り返す。本当にうれしそう。

赤ちゃんの目には見るものすべてがめずらしく、世界が輝いてみえていることでしょう。
毎日が新鮮でいのちが光輝いているようです。

それに引き替え大人は・・・

手足を動かせるのはあたりまえ
歩けるのもあたりまえ
食べられるのもあたりまえ
生きていられることもあたりまえ

なんでもあたりまえ、そこに喜びや感動や感謝などなにもありません。
あたりまえのことばかりでは退屈でつまらないので、何かおもしろいことはないかと外にめずらしいものやの、刺激ばかりを追い求めています。

しかし本当はあたりまえのことなんか何一つないのではないでしょうか?

東井義雄先生の著書『おかげさまのどまんなか』を読んでいると井村和清先生の「あたりまえ」という詩にであいました。
あたりまえ
こんなすばらしいことを、みんなはなぜよろこばないのでしょう
あたりまえであることを
お父さんがいる
お母さんがいる
手が二本あって、足が二本ある
行きたいところへ自分で歩いてゆける
手をのばせばなんでもとれる
音がきこえて声がでる
こんなしあわせはあるでしょうか
しかし、だれもそれをよろこばない
あたりまえだ、と笑ってすます
食事がたべられる
夜になるとちゃんと眠れ、そして又朝がくる
空気をむねいっぱいにすえる
笑える、泣ける、叫ぶこともできる
走りまわれる
みんなあたりまえのこと
こんなすばらしいことを、みんなは決してよろこばない
そのありがたさを知っているのは、それを失くした人たちだけ
なぜでしょう
あたりまえ

東井先生は、あたりまえのすばらしさの見えない人を「目をあけて眠っている人」というのだとおっしゃっています。

私たちの目には自分の都合のいいようにしか世界が見えていないのでしょう。
だから、それを(あたりまえのことを)失くしても、傲慢な生き方をしてきた私たちは「何で私が」と不平不満が出てくるばかりで、本当に大切な事になかなか気づくことができません。あたりまえのことがあたりまえでなくなったとしても、なにもそのありがたさに気づかずに、再びいつものあたりまえの日常生活にもどってしまうのは、あまりにも悲しすぎます。あたりまえを失くした人にしか気づくことが出来ない世界がそこにはあるはずです。
仏さまのほうから言うと、「本当に大切な事に気づいてくれよ」という気づきのチャンスをあたえてくださっているのです。
その願いに耳をかたむけ、あたりまえのすばらしさに気づくことができたなら、今あることに感動し、いのちが輝いてくるのではないでしょうか?

「目をあけて眠っている人」を呼び起こすのが南無阿弥陀仏であり、そこに開けてくるのが仏の眼なのです。仏の眼にはあるがままの世界があるがままに映り、あるがままの私があるがままに映るのです。そしてそこにあるがままの私があるがままに生きていくことができるのです。南無阿弥陀仏が今ここに在ることがあたりまえのことなのではなく、この世に生まれ今こうして生かさせていただいていることのただごとでなさを気づかせてくださるのであり、またそこに生きていることの感動が呼び起こされ、いのちが躍動し、そのかけがいのないいのちが輝いてくるのです。

しかし、そのよろこびや感動も、日々の生活の中でいつの間にか「あたりまえ」になってしまいます。だからこそ日々の念仏の生活が大切なのでしょう。お念仏が再び感動を呼び起こしてくださる。そしてその生きていることの喜びを念仏に受け止めて生きていけたらと思います。


よく子は親を映す鏡といいますが、あるがままを生きる我が子を見る度に「目をあけて眠っている人」である私に気づかされます。