今回の掲示は、「グー、グー、グー」とテレビを賑わしているエドはるみさんからネタを頂戴致しました。
普段、私たちはの在り方として、相手の上に立ち自分こそ正しい、あなたの考えは間違っていると人を裁き続けているのではないでしょうか?今回の掲示の言葉で言うと「私はグー あなたは愚」という全く逆の在り方である。
そのような在り方を正信偈では「邪見驕慢悪衆生」という言葉でいいあらわされています。「邪見」とは自分こそは正しいという在り方。また「驕慢」とはおごりたかぶっているということ。人と比較しては「私の方が上だ、あいつのほうが下だ」というふうに一喜一憂するという在り方です。つまりどちらも自己中心的であり、自分が一番かわいいということです。そういう在り方でいる時は、決して頭が下がることがありません。
仮に私は愚であると頭を下げることがあったとしても、頭が下がったのではなく、ただ下げているのであるから、「私も愚であるが、あんたも愚じゃないかー」とすぐに頭が上がり、自分は正しい、間違っていないと相手よりも上に立ってしまうのです。ここで大切なことは「頭を下げる」のではなく「頭が下がる」ということです。
私は「自分が一番可愛い邪見驕慢悪衆生でした、間違っていまし た」と頭が下がる、それが仏智です。前回の掲示でいうところの「仏の眼」に邪見驕慢悪衆生が映ったのです。ただそれでけのことを思い知る、ただありのままの世界、ありのままの自分の姿を思い知るのです。そしたらその時、もう比較対象としての「あなた」は必要なくなっているのです。つまり、ありのままの「あなた」をありのまま、事実を事実のまま認めていくことができるのです。
許す許さぬは外への視点視点を内に転ずれば私も許されている (『癌告知のあとで』鈴木章子)
人や社会を相手に「許す」だの「許さない」だの裁き続けている から、我と我が我他彼此とぶつかり合い争いがおこるのでしょう。自分こそ正しいと善人ばかり集まっているから争いがおこるのです。悪人ばかりだったら決して戦争などおきないのではないでしょうか。悪人とは「私も許されている」「間違っていたんだ」と本当に頭が下がり、悪人の自覚が生まれた人をいいます。
念仏すると悪人が善人になるのではなく、念仏が善人になっていた私を本当は悪人であると気づかせてくれるのです。本当の「私」の姿が見えた時、これまでと違った社会、そして「あなた」が見えてくるのではないでしょうか。
常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)はすべての人々の内に仏性を見出し「あなたは仏になるべき尊い人です」と合掌礼拝し続けられました。たとえ棒で叩かれ、石を投げつけられても拝み続けられた。常に相手を軽んじることがなかった。つまりどんな相手であっても尊敬していかれました。
しかしなかなか私たちは常不軽菩薩のようには生きられません。 むしろ逆に棒で叩き、石を投げつけているのが私たちの現実なのではないでしょうか。しかし聞法を通して仏のいのちへの気づきが深まるにつれて、「あなたも」おなじ仏のいのちを生きる仲間として見出されてくるのです。そしてお互いがお互いに気づきの縁になりながら、尊敬しあえるような世界を親鸞聖人は御同朋・御同行といわれたのではないでしょうか。
親鸞聖人は『歎異抄』で弟子唯円がなにをお尋ねしても、決して高いところに立って、「そんなこともわからんのか」と咎めたり、ああだこうだと一言もおっしゃらなかった。常に親鸞聖人は唯円と同じ目線に立って「おまえもそうなのか、実は私もそうなんだよ」とまず相手の立場を認めていくことから話を進められた。親鸞聖人は悪人としての自覚があったからこそ、同じ立場に立てるのでしょう。そこに「常不軽の人」としての親鸞聖人があったのではないでしょうか。
僧は万事いらず常不軽菩薩の行ぞ殊勝なりける (良寛)