いつも世間でもてはやされている事柄は、いかにして老病死を避けるかということ。しかしそれらは決して避けることができない、そんなこと子供でも知っているはずなのに、私たちは、それらを忘れて常に背を向けて生きている。
例えば、思わぬ病気になり病院に入院する。「こんなはずじゃなかったのに、こんな病気になっているのは本当の私ではない、はやくよくなって退院しなくては…」 また回復し病院から退院することを社会復帰という。
健康であるのが私であって、病気になり、病院で横たわっているのは本当の私ではないというのである。病院の外の社会に生きることこそ、本当の私の在り方なのだと。
退院できればいいが、もしできなかったら…
このように現実から目を背けるのではなく、自分の人生が今の状態とは別のものでなければならないと執着せずに、 病気になったら病人として病人になりきることが本当の私でいるということなのではないでしょうか?健康でいるのも私だったけれども、病気と闘い苦しんでいるのも 私だと。「私」が病気になるのではなく、今病気になっているのが「私」なのです。
安田理深先生が、老人性結核で病院で入院された時、 いちばんしんどかったのは病人になりきることだったとおっしゃられたそうです。また「最後にやっとわかったことは、病人になって病気することだった」とも おっしゃられたそうです。身はすでに病気をし病人として決定しているのに、こころが決定していないのです。こころがいつまでも健康人のままでいる。我がこころが我が身に決定しないのです。
どんな私であってもこころが身に本当に決定することを信心決定というのでしょう。決定したということは、どんな困難があってもその事実を事実として受け止めていけるということです。 その困難がたとえ老病死だとしても。 生老病死どれも私。