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2012年11月16日金曜日
苦しみや悲しみが 色づきを深め 黄金に輝くいのち 今燃ゆる
雷日数日本一の金沢市在住である程度雷慣れした私ですが、先日の雷は一味違いました。普段隣で赤ん坊が泣いていても目が覚めないくらい熟睡(鈍感なだけかも)している私ですが、世紀末かと思わせるような耳を塞ぎたくなる雷の音と回数に夜もおちおち眠むっていられませんでした。夜だけでなく日中も鳴り響き、一年分の雷が1,2日で鳴ったようでした。
また今年は温暖化の影響でしょうか、台風のような強風の日が続き、本堂の入り口に貼ってある掲示が何度となく剥がれ飛ばされてしまいました。このように荒れた日が続いたにもかかわらず、境内の銀杏は着実に色づきを深めております。よく観察してみると、銀杏の葉はいきなり緑色→黄色に変化するのではなく、一枚一枚の葉が徐々にグラデーションを作りながら徐々に色づきを深めていきまます。一枚の葉っぱに緑や黄色や中間色など色々な色が入り交じっているのです。暑さと寒さの温度差によって色づきが深まるといわれていますが、それだけでなく雷雨や強風など様々な気候や環境の変化に敏感に反応、呼応しながら色づいていくのでしょう。それと同じように私たちも、楽しいことや苦しいこと喜びや悲しみなど様々な経験を通して人生の色づきを深めていくのだと思います。
健康で生きがいのある、明るく楽しい生活こそ私の人生だとそのことを求め続ける私たちですが、楽だけでは色づきません。思い通りにならない悲しみや苦しみ、それらの経験が人生を深めていくのでしょう。苦しみや悲しみの中からしか気づけないことがあるからです。歳を重ねるということは、その気づきを深めていくこと。しかしいつまでも元気で若々しく生きがいのある生活を求める私たちは苦しみや悲しみから眼を逸らし、誤魔化しながら生きているといえるのではないでしょうか。
最近は実年齢よりも若く見える女性を美魔女という言葉でもてはやしますし、サプリメントなどのCMなどでも元気はつらつな老人を目にします。勿論実年齢よりも若く見られたり年齢の割に元気なことは誰だって羨ましく思うものです。私だって「若く見えるね」と言われれば嬉しいですし、今使っている体重計は体内年齢も表示されるのですが、実年齢よりも低く表示されると思わずニヤリとしてしまいます。
それでもみんな老病死に捕まっていくのです。そのことから目を逸らしながら生きていますが、いつか誤魔化しきれない時がやってくるのです。大切な問題を先送り、先送りしながら歳を重ねていますが、歳をとると段々とできないことが増え、不平不満だらけ。それだけでは人生の色づきは深まらないのでしょう。そこにいるのは歳をとったワガママな青年です。
そんな愚痴いっぱいのところに今いのちが輝いているとは到底思えないでしょう。「あの頃はよかったな~」とため息をついても若いころの輝きはもう取り戻せないのです。
しかし、私の思いではいのちは輝いていなくても、仏の(私の思いを超えた)いのちはいつも輝いているのだと思います。私たちの分別がそのことを見えないようにしているのです。思い通りにならないから輝かないのではなく、その思い通りにならない私を生かしているかけがえのないいのちに出遇っていないから輝いているとは思えないのです。だから思い通りになったら輝くのではなく、思い通りになったことも思い通りにならなかったこともひっくるめて黄金に輝くのです。
私たちはよく「今年の紅葉は綺麗だ」とか「今年はいまいちだった」と言います。正直言って、今年の銀杏は例年と比較してもあまり綺麗とは言えないかもしれません。しかしそれは人間の眼に写った銀杏であって、境内の銀杏は良いも悪いもないのでしょう。天候や環境など様々な縁を引き受けて今しか出せない色を私たちに見せてくれているのです。
今年はあまり綺麗に紅葉しなかった銀杏でしたが、そのお陰で大切なことを気づかせてくれました。
黄金に輝くいのち 今燃ゆる わたしもあなたも
2012年10月11日木曜日
親鸞聖人は 何を悲しみとし 何を喜びとされたのか
先日あるお寺の報恩講に講師としてお招きいただき「親鸞聖人は 何を悲しみとし 何を喜びとされたのか」という講題で三座お話させていただきました。
そして10月17、18日と当寺の報恩講をお迎えするにあたり、同じく「親鸞聖人は 何を悲しみとし 何を喜びとされたのか」を今年の報恩講のテーマという意味合いも含めて書かせていただきました。
個人的な悲しみや個人的な喜びの中を流転する私たちに本当の悲しみ、本当の喜びというものを教えて下さった、それが親鸞聖人というお方なのではないかと思います。そしてその教えに出遇った者がその喜びを報恩講というかたちで表現されてきました。それは単なる喜びの歴史ではなく、悲しみの歴史でもあります。迷いを抱えた者が迷いの身と向き合い悪戦苦闘しながら真剣に道を求めてきたのです。その歴史の中において現代を生きる私たちはどのように生きるのか。私たちに先立って苦悩し、その中から確かな世界に出遇っていかれた聖人の教えに耳を傾けずにはいられません。
古人の跡を求めず、古人の求めしところを求めよ
松尾芭蕉
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