2012年6月15日金曜日

念仏者は 浄土と娑婆の間を 生き抜く




何をいう、念仏する者は浄土に生まれるのであって浄土と娑婆の間(はざま)という中途半端なところに生まれるのではないと言われる方もあるかもしれませんが、誤解を承知でこのような表現をとらせていただきました。
念仏して救われたと聞くと、悩みがなくなって心安らかな生活が送ることができるように思いがちですが、私たちが生きる場所はこの悩みや苦しみに満ちた娑婆世界であり、娑婆は堪忍土ともいわれるように耐え忍んでいかなければいけない世界なのです。そのような世界が現実として目の前にあるのに、一人よがりな救いに安住したり、浄土という理想郷に腰を降ろして極楽、極楽というわけにはいかないのです。念仏さえ称えておれば、苦しんでいる人が周りにいても、それで良いのか。そんなはずがありません。周りに苦しむ人がいるのに自分だけが救われる、それが本当の救いといえるでしょうか。

第一願だけを見ますと、阿弥陀仏の浄土は地獄、餓鬼、畜生のない、綺麗な所に見えるかもしれません。しかし、第二願で確かめますと、たとえ地獄、餓鬼、畜生がいっぱいあっても、それに飲み込まれないということが課題になっています。かえって問題がある中で、何が大事かを明確にし、お互いに傷つけあうことを乗り越えていくという、そういう課題を担うような人が生まれてくることを第二願は誓っています。
 第一願だけでしたら大きな誤解をしてしまいそうです。どこかにすばらしい世界があると。しかし、第二願を通して、戦争の好きな私、差別してやまない私が問題となってくるのです。その生きざまが問題にならなければ浄土はどこを探しても無いのです。

『四十八願概説』一楽真

※参考
第一願(無三悪趣の願) 
説我得仏 国有地獄餓鬼畜生者 不取正覚(たとい我、仏を得んに、国に地獄・餓鬼・畜生あらば、正覚を取らじ) 
口語訳・わたしがもし仏になるとき、私の国に地獄や餓鬼や畜生のものがいるようなら、わたしは決してさとりを開きません。

第二願(不更悪趣の願) 
説我得仏 国中人天 寿終之後 復更三悪道者 不取正覚(たとい我、仏を得んに、国の中の人天、寿終わりて後、また三悪道に更らば、正覚を取らじ) 
口語訳・わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々が命を終えた後、ふたたび地獄や餓鬼や畜生の世界に落ちることがあるようなら、わたしは決してさとりを開きません。
浄土に腰をおろしてヤレヤレではなく、私たちの生きていく場所は地獄の真っ只中。三悪趣の真っ只中にあってそれに染まらずに三悪趣の身を問題にしていくのです。だから、ただ単に三悪趣にかえらないという意味ではなく、三悪趣の世界に埋没しないということなのです。地獄・餓鬼・畜生の世界にあって諦めるのでも開き直るのでもない。三悪趣の世界で地獄・餓鬼・畜生の生き方しかできない自分を問題にしていく。それが埋没しないということなのでしょう。

親鸞聖人は非僧非俗といわれましたが、それはもちろん肉食妻帯するために開き直っているわけでも、僧侶としてあきらめているわけでもありません。僧と俗の間を生きる決意を非僧非俗という言葉で表したのだと思います。僧侶としてのエリートコースである比叡山を下り、法然上人との出遇い、そして僧籍を剥奪され越後に流罪となり、いなかのひとびとと共に生活を送ることとなった、これらの体験があったからこそ生まれた言葉でしょう。もし流罪にあわなければこのような言葉も生まれなかったかもしれませんし、ただの法然門下のいち僧侶で終わったのかもしれません。
流罪という絶望の中で親鸞聖人は生きる道を改めて確かめられ、その道を共に歩んでいく覚悟をきめられたのでしょう。そういう覚悟と情熱と勇気をお念仏から賜ったのです。

念仏者は浄土に座り込むのでもなく、この娑婆界に埋没してするのでもなく、その間に身を据えて社会や人との関わりの中から自分という存在を問題にしな歩み続けていく、それが念仏者の生き方なのでしょう。

2012年5月18日金曜日

迷いの深さはいのちの深さ いのち深き故 道を求むこころ発こる




昨年の報恩講で相馬豊先生に次のお言葉教えていただきました。

国宝とは何者ぞ。宝とは道心なり。
道心ある人を名づけて国宝となす
最澄

道心すなわち求道心が宝であり、国宝であるとまでいわれており、すこしびっくりさせられました。それだけ道を求める心を持つ人が尊いということなのでしょうね。
しかし、道心を持つ者と持たない者があるのではなく、その人が気づいてようがいまいが、人として生きているすべての者が本来持っているものなのでしょう。だから道というのはなにも仏門に入って修行をするといったような仏道に限ったことではありません。仏道を求める人であっても、仏道を求めることのない人でもあろうとも、仏道というかたちをとってないだけで、道を求める心をこころは地下水のように人の歴史の底を流れているのです。

人は一人ひとり別々の道を歩んでいます。そしてその道に悪戦苦闘しながら一生懸命に生きています。「これこそ私が求めた私のための道だ」と順風満帆に歩む時もあれば、失敗したり、行き詰まることもあるでしょう。「私が歩むべきは道は本当にこれでよかったのだろうか」「もっと他に別の道があるのではないだろうか」不安感や虚無感そういうものを抱えながら生きている。その不安や虚しさは、いのちの深さ故感じるのです。思い通りにならなくても虚しいが、思い通りになってもやっぱり虚しい。それだけ私たちが抱える迷いが深いということであり、同時にいただいたいのちも深いということです。ちっぽけな充足感や気休めでは満足しない、そういう深いいのちを生きているのです。だから心の奥底から本当に満足できる、いのちが満たされるような道を求めるこころが発こってくるのです。そしてその求道心に押し出される歩みがそのまま仏道となっていくのでしょう。

2012年4月9日月曜日

ほとけの花開くとき 閉じたこころ 開かる


わがこころ 貝のごとくに ふと閉じぬ
このかなしみを ひらくもの ただねんぶつの ほかはなく
ただねんぶつの ほかはなく  
木村無相
このような詩を越前の妙好人である木村無相さんは残されています。
私たちも自分の思い通りにならなかった時や、自分にとって都合の悪いことがおこった時に自分の殻に閉じこもるというようなことがありますが、無相さんも「ふと閉じぬ」といわれているように、そういう縁があれば、自然と閉じてしまうのが私たちです。しかし自分の意志で開けたり閉じたりできるものではありません。無相さんはお念仏の智慧によって見えてきたわがこころが閉じた貝のようだとおっしゃるのです。
そもそも私たちは貝の如くに頑なに心を閉ざしている、そのことにすら気づいていないのではないでしょうか。思い通りにならないから愚痴がでるように思いがちですが、たとえ思い通りになったとしても、そのことに本当に満足するということはありません。その満足とは、満足と言っても自己満足ですから、すぐに愚痴がでる。それは自己満足という殻に閉じこもっているに過ぎないからなのでしょう。このように思い通りになってもならなくても自分の思いの中に閉じこもった生き方をしているのが私たちの生き方であり、そのような状態を『大無量寿経』では「心塞意閉」ということばで言い当ててくださっています。またその閉じた心が開かれた状態を「心得開明」「耳目開明」といいます。
無相さんは、その閉じた心を開いてくださるはたらき、それが念仏だとおっしゃいます。
南無阿弥陀仏とはその閉じた狭いくて暗い闇の世界から広くて明るい世界へと出よという呼びかけです。しかしその呼びかけに素直に頷けないのがわたしたちです。厄介なことに私たちは外に明るい世界があることも知らないし、あると知らされてもそんなところに出たいとも思ってないのです。
   大聖易往とときたまふ 
   浄土をうたがふ衆生をば    
   無眼人とぞなづけたる     
   無耳人とぞのべたまふ      

   『浄土和讃』
その呼びかけを聞く耳をもっていないし、浄土という明るい世界をみる眼(=閉じた自分の思いをみる眼)も持ちあわせていないのが私たちです。そんなものをみたくも聞きたくもない、念仏すれば浄土に往生できると聞かされても、往生したいと思わない。そんなことより自分の世界の中で自己満足に浸っていたい。苦しいこともあるけれども、楽しいこともあるじゃないか。今は苦しくても、その苦しみは必ず報われるはずだ、これでいいじゃないか。しかし本当にそのような生き方でいいのか。
無相さんは、「このかなしみを ひらくもの ただねんぶつの ほかはなく」とおっしゃる。そんな生き方が悲しみとなってくるのです。思い通りにならないから悲しいのではなく、自分自身の在り方を悲しんでおられるのです。状況の悲しみではなく、存在の悲しみといえます。閉じた貝を開くために念仏しておられるのではなく、念仏するところに悲しみの身が明らかになる、そこに自ずと貝が開かれるのです。閉じた心を念仏申す縁としながら開かれて続けていく、それが念仏者の生き方なのだと思います。
愚痴いっぱいの身そのままに、愚痴がお念仏へと転ずる。

2012年3月19日月曜日

一声の念佛に 私を明かしし 如来を証する


「念仏すれば救われる」なんて言われても「はい、わかりました。ナムアミダブツ・・・・」と素直に言える方は殆どいらっしゃらないのではないでしょうか。
また「南無阿弥陀仏」と念仏申しながらであっても「念仏して何になる」「仏様は本当に救ってくださるのか」「仏様は本当にいらっしゃるのか」「仏様はどこにいらっしゃるのか」等々、念仏や仏様に対する疑問や疑いのこころでいっぱいでとても素直な念仏といえるものではありません。

それでは仏様とはどんな人か知ることができれば、念仏できるのか?

例えば、富士山を見て感動した人が、富士山という山を見たことも聞いたこともない人に対して、富士山とはどういう山であるか、そしてどういうところに感動したのか、いくら口で説明してもなかなか伝えることが難しい。写真や図鑑などを見て研究や分析をすれば富士山とはどういう山であるかということは理解できるかもしれませんが、そこには感動はありません。やはり直接富士山を見てその美しさや雄大さに触れないことには感動できないのではないでしょうか。ひと言で言ってしまえば「百聞は一見に如かず」なのですが、仏様は富士山と異なり、自分の方から会いに行くことはできません。自分の思いや力では見ることも聞くこともできないので、仏様が「いる」とか「いない」、「信じられる」とか「信じられない」という水掛け論に終始することになってしまうのでしょう。

曽我量深先生は仏様についてある方からの質問に対して次のようにお答えになられました。

「佛様とは」
1、仏様とはどんな人か
  答、仏様は、われは南無阿弥陀仏と申すものであると名のっておいでになり ます。
2、その仏様はどこに居られるか
  われを南無阿弥陀仏と念じ称へる人の直前においでになります。
3、そんならその仏を私達が念ずるに はどのような方法がありますか。
  南無阿弥陀仏と、一念疑なく自力のはからひをすてヽ静なる心をもって、  仏願くはこの罪深き私をたすけましませと念ずるのであります。
  これはだれでも、どこにゐても、いつでも、かなしい場合でも、うれしい  場合でもたやすく自由に仏を念ずることができるのです。
  この念が現前する時いかなる煩悩妄念が襲ひ来っても内心の平和は絶對に  やぶれません。是を真の救済と申します。     以 上 
日本国 昭和31年1月21日
        米国羅府  東本願寺    曽
 

1、仏様とはどんな人か
  
私たちの方から想像する仏様とは、自分にとって都合の良い、理想的である仏様です。つまり主観的な仏様であるので、一人ひとり異なった仏様を思い描くことになってしまいます。
しかし、曽我量深は返答では、「仏様は、われは南無阿弥陀仏と申すものであると名のっておいでになります」と。仏様とは「南無阿弥陀仏」という名告りであると言われます。私の方から仏様に近づいていくのではなく、反対に仏様の方から我々に先立ってお近づきになってくださっているのです。いろもかたちもないさとりの世界をなんとか私たちに知らせようと南無阿弥陀仏と名告られているのです。名告ってくださっているから私たちも「南無阿弥陀仏」と呼び返すことができるのです。

2、その仏様はどこに居られるか
  われを南無阿弥陀仏と念じ称へる人の直前においでになります。

とこうあるように、仏様とはどこかに実体的に存在するのではなく、私たちが「南無阿弥陀仏」と呼び返すところに仏様を証明していくのです。証明していくというと何か私たちの方が仏様よりも立場が上になってしまっているように思われる方もあるかもしれませんが、そうではありません。どういうかたちで証明していくのかと申しますと、自らを明らかにしていくということです。だから念仏すると仏様のことがわかるようになってくるというよりは、自分自身が明らかになってくるのだと思います。つまり自らの闇が明らかとなるというかたちで如来の真実性が証されるのです。光と闇が相対的に存在するのではなく、光によっていよいよ闇が明らかとなる。闇を闇であると知らしめてくださった、そのはたらきこそ光すなわち南無阿弥陀仏なのでしょう。

一声の念仏に私と如来が成就する

2012年2月3日金曜日

念仏で 救われたと思うも 救われぬと思うも 凡夫のはからい


自力(=はからい)というと自らの力で困難に立ち向かったり、厳しい修行をしたりと、他力の念仏をいただく者には関係のないようなことのように思われますが、お念仏もまた自力のこころでいただいてしまっているのが私たちなのではないでしょうか。


自力のこころをひるがえして、他力をたのみまつれば、真実報土の往生をとぐるなり

『歎異抄』第三条

とこう言われれば「自力のこころはいけない、他力をたのまなければならない」と自力のこころを翻そうと、また他力をたのもうと努力してしまうのが私たちです。どこまでも我がはからいの上に念仏していくのです。他力といいながらも自力根性を捨てることができないのが私たちの正体なのではないでしょうか。

小松の妙好人森ひなさんは次のように詠われます。

  他力他力とおもうていたが
  思う心がみな自力
  ああ 恥ずかしい
  南無阿弥陀仏
  

  森ひな

「他力」、「他力」と他力に固執しているそのこころこそが自力であったんだと。私たちの思いで自力と他力を使い分けることなどできないのでしょう。私たちの思いの延長には自力しかないわけです。

そのような自力根性でいくら「念仏で救われた、すべておまかせや」とありがたってみても、それはただその時の心境に過ぎません。心境の中の救いであるからして、ひとたび不都合なことが起これば消え去ってしまうような不定な救いです。

続けて「ああ恥ずかしい」とありますが、他力他力とおもうていたが、そう思う心がみな自力であったのだと気づかせてくれるおはたらきに出遇うことができたからこそでてきた言葉なのだと思います。お恥ずかしい自分に気づかせてもらえたからこそ「南無阿弥陀仏」がでてきてくださるのだと。

今回の掲示では、念仏して救われたと思ったり、救われないと思ったりと心が定まらないようではいけないとそのようなことを言いいたいわけではありません。「念仏で救われた」「念仏で救われない」とそのような不定のこころを捨てて救われるのではなく、どこまでも自力から抜け出すことができないそのような迷いを抱える身が明らかとなった。そんな凡夫のはからいでしか念仏できない身抱えておる、そんな私たちだからこそ救わんと立ち上がってくださる、それが南無阿弥陀仏のおはたらきなのす。

自力のこころを自力だと知らされる
他力のこころも自力だと知らされる
そこに自力のこころが翻されるのでしょう。

2012年1月1日日曜日

年は変われども 変われぬは我が身 佛恩報謝の思い 新たなり


新年を迎えると、人は不思議なもので身が引き締まる思いとともに決意を新たにします。そしてその決意を具体的に書き初めとして文字で書き記したり、決意が実現するように神に祈ったりします。その決意の内容は人それぞれ様々でしょうが、主に改善や成長、回復、実現、安泰など変化を求めるものが多いのではないでしょうか。変化することによって、よりよい世界や社会、人間を実現しようとするのです。その向上心によって人間の歴史を見てもわかるように文明や文化、経済、科学などが発展発達してきました。

しかし、よく考えると何かを手に入れ変化することでより幸せを手になっていこうとするということは、それは今現在の自分に不満を持っているといことの表れだといえないでしょうか。無意識的ですが今現在の自分を否定してしまっていることになるのです。今の自分では駄目だということは、今は不幸せだと言っているようなものです。悲しいことですが、今の自分を受け取れずにいつまでも生きることに満足できないでいるのが、この私たちだといえるのではないでしょうか。

確かに人間の歴史は表面的には目覚ましい変化を遂げたのでしょうが、どうも人間の抱える闇というもは何ひとつ変わっていないようです。親鸞聖人の時代の人が抱える闇も現代を生きる私たちが抱いている闇も同じだといえます。実は心がけや決意でいくら改善しようとたとしても、それは表面的なものであり、根源的に変わることが不可能である、そういうどうすることもできない身を私たちは抱えて生きているのだということを親鸞聖人は教えてくださっています。

どうすることもできない私たちですが、どうすることもけれども、どうすることもできないからこそ祈らずにはいられないのかもしれません。

ところで浄土真宗はあまり祈りという言葉を使いません。祈りに対して否定的です。なぜなら祈りというと、どうしても個人的な要求を満たすための行為の意味合いが強くなってしまうからだと思われます。

それでは浄土真宗には祈りは存在しないのでしょうか。

曽我量深先生は「真宗には祈りというものがあるのですか」という問いにたいして次のように答えられます。

「真宗にも祈りはございます。ただし、この真宗での祈りとは人間が仏様にものを祈るのではなく、如来様から祈られた私である。だから、如来の祈りとして、真宗にも祈りというものはあるのです」

真宗の場合、祈りとは個人的なものではなく、如来の祈りとして存在すると。さらに如来から祈られた私であるとも言われます。通常、「如来の祈り」ではなく、「如来の願い」と表現します。なぜなら、それは祈りよりももっと深く具体的なものであり、四十八の願として、さらには名号というかたちとして現れてきた、その根本的な願いのことを如来の願い、本願というからです。
しかしここでは「祈り」について訊ねられているので、敢えて祈りと表現されたのだと推測されます。当然ここで言われる如来の祈りとは個人的なものではありません。もっと根源的かつ普遍的な祈りのことをそう表現されているのでしょう。それは私たちが起こす願いや祈りとは全く異質なものといえます。

しかし曽我先生は次のようにも述べられます。

阿弥陀の本願というものは特殊の願ではない。あらゆる人間性というものの根源になる純粋な願い、純粋な祈り、そういう共通しておるものが一切の人類の深いところに与えられておる。それがあるがゆえに私どもは聞いて信ずるということがある。それで「諸有の衆生、その名号を聞いて信心歓喜し乃至一念せん」と大無量寿経に記されてある。私どもは生まれながらにして信心のお念仏というものが与えられておる。 

阿弥陀の本願というものは特殊の願ではないと。また如来から呼びかけられる私たちは、如来の本願に呼応し得る存在であるとも。なぜなら生まれながらにして人類共通の純粋な祈りが与えられているからだと。
普段、生まれてからの願いに迷い惑わされながら生きている私たちですが、その根底には生まれながらに与えられているもっと純粋な願いがあるのです。

浄土真宗は個人的な祈りを全否定しているわけではありません。人間は祈ることでなんとか自分を受け止めようと必死に生きているのです。叶うから祈るのではない。祈らずにはいられないものをこちら側が抱えているからです。そういう悲しい存在なのです。そういう悲しい存在だからこそ、如来のほうが私たちに祈られる。私たちが神に祈ろうが仏に祈ろうが、それに先立って何時でもどんな時でも私たちを祈ってくださっている。

どうすることもできない問題を抱えるとき、個人的な祈りでは間に合いません。しかしそのどうすることもできないところに個人的な祈りが破られ、純粋な祈りに目覚めさせられていくのです。

私たちは、一体どうなりたいのでしょうか。
私たちの祈いとはどういうものなのでしょうか。
私たちは、如来から何を願われているのでしょうか。
その問いに耳を傾けずにはおれません。

本年も、変わりたくても変われないが変わろうとする、その迷いの身から目を逸らすことなく、確かな世界を確認しながら、仏恩報謝の思いを日々新に、お念仏と共に皆さんと歩んでいくことを願います。

2011年11月18日金曜日

ありがとうと心から喜べぬ ごめんなさいと心から恥じることもできぬ 今日も如来のご苦労が身に染みる


先日、あるお家へ内報恩講のお参りにお伺いした時のことです。そこのおばあさんが、「今日は報恩講さんや、めでたい。今年も一年無事に過ごすことができた。ありがとう」とおっしゃっていました。勿論、報恩講は一年の無事を喜ぶ行事ではありません。しかし、それでは私は、一体何を喜びとしているのであろうか?阿弥陀さんや親鸞さんに感謝やと言いながら、本当に感謝の思いがそこにはあるのだろうか?との問いをそのおばあさんからいただき、改めて考えさせられたことです。

私たちは普段から「ありがとう」という言葉を多用しています。しかしどうもその喜びの出処が浅いようです。それはとても個人的なことを喜んでいるだけなのではないでしょうか。物事が自分の思い通りに運んだり、自分の家族や親しい人の思い通りに運んだり時に喜んでいるのです。もっと範囲を広げてみても、自分の仕事や故郷や国がうまくいっていることを喜んでいるだけで、極端かもしれませんが、隣の家で涙を流していようが、隣の会社や国がどうなっていようが、周りを蹴落としてでも自分のところさえうまくいっていれば「ありがとう」「お陰様で」なのです。

これらは「自分の家族」「自分の会社」「自分の国」というようにすべて頭に「自分の」「私の」がつくことからも分かるように、とても個人的で自己中心的な喜びです。私たちはそういう喜びに何の疑問を持つことなく生活しているのですが、阿弥陀さんや親鸞さんはそういう生き方をしている、そういう生き方しかできない私たちを悲しんでおられるのです。

そういう個人的な喜びで満足できるのならば、それでもいいのかもしれませんが、その喜びは一過性のものであり、本当の満足を得られるわけではなく、どこか虚しい。個人的な喜びでは本当の喜びとなってこない。しかし虚しいと感じるということは、そこに本当に喜ぶべきものに出遇ってくれよとの弥陀の本願がはたらきがあるからこそ、虚しさを感じるわけです。本当は個人的な満足に浸っていたい私たちですが、本当に満たされることがない。私たちは心の奥底で本当に喜ぶことができるものに出遇いたいという要求をもっているからこそ、虚しいと感じるのでしょう。

親鸞聖人はご和讃に
本願力にあいぬれば
むなしくすぐるひとぞなき
功徳の宝海みちみちて
煩悩の濁水(じょくしい)へだてなし
『高僧和讃』親鸞聖人(真宗聖典490頁)
と言われる。

そう言われても、喜ぶべきものを喜ぶことができずに虚しい。念仏していても生きる力や喜びとなってこない。何故迷っているのか、何に迷っているのか、そもそも迷っていることすら忘れてしまっているのではないか。迷いについて『歎異抄』では

身の罪悪のふかきほどをもしらず、如来の御恩のたかきことををもしらずしてまよえるをおもいしらせんがためにてそうらいけり
『歎異抄』(真宗聖典640頁)

身の罪悪のふかきほどをもしらず、如来の御恩のたかきことををもしらないから迷っているのだと。普段「信心とは」とか「念仏とは」とさもわかったような顔をして話しているが、本当に自分をごまかすことなく罪深い身をしっかりと凝視し、自らを問い直すということがあるのか。本当に信心歓喜のお念仏を称えているのか。

親鸞聖人は自身の在り方を直視されて、

愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証に近づくことを快しまず
『教行信証』親鸞聖人(真宗聖典251頁)


とごまかすことなく正直に述べらています。

また『歎異抄』では

念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころのそうらわぬは、いかにとそうろうべきことにてそうろうやらん」と、もうしいれてそうらいしかば、「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもいたまうべきなり
『歎異抄』(真宗聖典629頁)

ここでは親鸞聖人ご自身も唯円と同じく「念仏申しても歓喜のこころが湧いてこないし、浄土へ往きたいというこころもない」とまで言われるのです。唯円もまさか親鸞さまも自分と同じこころであったとは思わなかったでしょうね。親鸞聖人のようなお方ならいつも信心歓喜の念仏を称えていらっしゃると思っていたはずです。そしてよろこぶべきことを、よろこべないからこそ往生が定まるのだとまでいわれます。
勿論これらは開き直っているわけでも強がっているわけでもありません。
阿弥陀さんに本当の自分の姿を知らせていただいたこそ出てくる悲嘆ともいうべき表白であり、そんな身であるからこそ、いよいよ本願がたのもしく思えてくるのでしょう。念仏申しながらもいつの間にか善人になり、本当の自分から目を逸らし、ごまかしながら生きているのが私たちです。それが私たちの本性なのです。ある意味、私たちは自分から目を逸らしている方が楽なのかもしれません。醜い自分の姿を見たくないですから。自分の思いという自己満足の世界に浸っていたい。しかし本願のはたらきに遇うと、本願が私たちをそこに座り込ませない。私たちの思いからは、自分から目を逸らしたり、ごまかしたりする思いしかでてこないのですが、本願のはたらきに遇うと「お前はそれでいいのか」と本願に引き戻されていくのです。
個人的な喜びを捨てて、喜ぶべきことを喜ぼう、または喜ばなくてはいけないと思ってしまいますが、喜ぶべきことを喜べない私であるからこそ出遇うことができる本当の喜びがあるのだと思います。それは単なる喜びではなく、悲嘆、懺悔を伴った喜びなのです。
私たちは一体何を喜びとしているのか、何を悲しみとしているのか、考えてみませんか。