2012年1月1日日曜日

年は変われども 変われぬは我が身 佛恩報謝の思い 新たなり


新年を迎えると、人は不思議なもので身が引き締まる思いとともに決意を新たにします。そしてその決意を具体的に書き初めとして文字で書き記したり、決意が実現するように神に祈ったりします。その決意の内容は人それぞれ様々でしょうが、主に改善や成長、回復、実現、安泰など変化を求めるものが多いのではないでしょうか。変化することによって、よりよい世界や社会、人間を実現しようとするのです。その向上心によって人間の歴史を見てもわかるように文明や文化、経済、科学などが発展発達してきました。

しかし、よく考えると何かを手に入れ変化することでより幸せを手になっていこうとするということは、それは今現在の自分に不満を持っているといことの表れだといえないでしょうか。無意識的ですが今現在の自分を否定してしまっていることになるのです。今の自分では駄目だということは、今は不幸せだと言っているようなものです。悲しいことですが、今の自分を受け取れずにいつまでも生きることに満足できないでいるのが、この私たちだといえるのではないでしょうか。

確かに人間の歴史は表面的には目覚ましい変化を遂げたのでしょうが、どうも人間の抱える闇というもは何ひとつ変わっていないようです。親鸞聖人の時代の人が抱える闇も現代を生きる私たちが抱いている闇も同じだといえます。実は心がけや決意でいくら改善しようとたとしても、それは表面的なものであり、根源的に変わることが不可能である、そういうどうすることもできない身を私たちは抱えて生きているのだということを親鸞聖人は教えてくださっています。

どうすることもできない私たちですが、どうすることもけれども、どうすることもできないからこそ祈らずにはいられないのかもしれません。

ところで浄土真宗はあまり祈りという言葉を使いません。祈りに対して否定的です。なぜなら祈りというと、どうしても個人的な要求を満たすための行為の意味合いが強くなってしまうからだと思われます。

それでは浄土真宗には祈りは存在しないのでしょうか。

曽我量深先生は「真宗には祈りというものがあるのですか」という問いにたいして次のように答えられます。

「真宗にも祈りはございます。ただし、この真宗での祈りとは人間が仏様にものを祈るのではなく、如来様から祈られた私である。だから、如来の祈りとして、真宗にも祈りというものはあるのです」

真宗の場合、祈りとは個人的なものではなく、如来の祈りとして存在すると。さらに如来から祈られた私であるとも言われます。通常、「如来の祈り」ではなく、「如来の願い」と表現します。なぜなら、それは祈りよりももっと深く具体的なものであり、四十八の願として、さらには名号というかたちとして現れてきた、その根本的な願いのことを如来の願い、本願というからです。
しかしここでは「祈り」について訊ねられているので、敢えて祈りと表現されたのだと推測されます。当然ここで言われる如来の祈りとは個人的なものではありません。もっと根源的かつ普遍的な祈りのことをそう表現されているのでしょう。それは私たちが起こす願いや祈りとは全く異質なものといえます。

しかし曽我先生は次のようにも述べられます。

阿弥陀の本願というものは特殊の願ではない。あらゆる人間性というものの根源になる純粋な願い、純粋な祈り、そういう共通しておるものが一切の人類の深いところに与えられておる。それがあるがゆえに私どもは聞いて信ずるということがある。それで「諸有の衆生、その名号を聞いて信心歓喜し乃至一念せん」と大無量寿経に記されてある。私どもは生まれながらにして信心のお念仏というものが与えられておる。 

阿弥陀の本願というものは特殊の願ではないと。また如来から呼びかけられる私たちは、如来の本願に呼応し得る存在であるとも。なぜなら生まれながらにして人類共通の純粋な祈りが与えられているからだと。
普段、生まれてからの願いに迷い惑わされながら生きている私たちですが、その根底には生まれながらに与えられているもっと純粋な願いがあるのです。

浄土真宗は個人的な祈りを全否定しているわけではありません。人間は祈ることでなんとか自分を受け止めようと必死に生きているのです。叶うから祈るのではない。祈らずにはいられないものをこちら側が抱えているからです。そういう悲しい存在なのです。そういう悲しい存在だからこそ、如来のほうが私たちに祈られる。私たちが神に祈ろうが仏に祈ろうが、それに先立って何時でもどんな時でも私たちを祈ってくださっている。

どうすることもできない問題を抱えるとき、個人的な祈りでは間に合いません。しかしそのどうすることもできないところに個人的な祈りが破られ、純粋な祈りに目覚めさせられていくのです。

私たちは、一体どうなりたいのでしょうか。
私たちの祈いとはどういうものなのでしょうか。
私たちは、如来から何を願われているのでしょうか。
その問いに耳を傾けずにはおれません。

本年も、変わりたくても変われないが変わろうとする、その迷いの身から目を逸らすことなく、確かな世界を確認しながら、仏恩報謝の思いを日々新に、お念仏と共に皆さんと歩んでいくことを願います。

2011年11月18日金曜日

ありがとうと心から喜べぬ ごめんなさいと心から恥じることもできぬ 今日も如来のご苦労が身に染みる


先日、あるお家へ内報恩講のお参りにお伺いした時のことです。そこのおばあさんが、「今日は報恩講さんや、めでたい。今年も一年無事に過ごすことができた。ありがとう」とおっしゃっていました。勿論、報恩講は一年の無事を喜ぶ行事ではありません。しかし、それでは私は、一体何を喜びとしているのであろうか?阿弥陀さんや親鸞さんに感謝やと言いながら、本当に感謝の思いがそこにはあるのだろうか?との問いをそのおばあさんからいただき、改めて考えさせられたことです。

私たちは普段から「ありがとう」という言葉を多用しています。しかしどうもその喜びの出処が浅いようです。それはとても個人的なことを喜んでいるだけなのではないでしょうか。物事が自分の思い通りに運んだり、自分の家族や親しい人の思い通りに運んだり時に喜んでいるのです。もっと範囲を広げてみても、自分の仕事や故郷や国がうまくいっていることを喜んでいるだけで、極端かもしれませんが、隣の家で涙を流していようが、隣の会社や国がどうなっていようが、周りを蹴落としてでも自分のところさえうまくいっていれば「ありがとう」「お陰様で」なのです。

これらは「自分の家族」「自分の会社」「自分の国」というようにすべて頭に「自分の」「私の」がつくことからも分かるように、とても個人的で自己中心的な喜びです。私たちはそういう喜びに何の疑問を持つことなく生活しているのですが、阿弥陀さんや親鸞さんはそういう生き方をしている、そういう生き方しかできない私たちを悲しんでおられるのです。

そういう個人的な喜びで満足できるのならば、それでもいいのかもしれませんが、その喜びは一過性のものであり、本当の満足を得られるわけではなく、どこか虚しい。個人的な喜びでは本当の喜びとなってこない。しかし虚しいと感じるということは、そこに本当に喜ぶべきものに出遇ってくれよとの弥陀の本願がはたらきがあるからこそ、虚しさを感じるわけです。本当は個人的な満足に浸っていたい私たちですが、本当に満たされることがない。私たちは心の奥底で本当に喜ぶことができるものに出遇いたいという要求をもっているからこそ、虚しいと感じるのでしょう。

親鸞聖人はご和讃に
本願力にあいぬれば
むなしくすぐるひとぞなき
功徳の宝海みちみちて
煩悩の濁水(じょくしい)へだてなし
『高僧和讃』親鸞聖人(真宗聖典490頁)
と言われる。

そう言われても、喜ぶべきものを喜ぶことができずに虚しい。念仏していても生きる力や喜びとなってこない。何故迷っているのか、何に迷っているのか、そもそも迷っていることすら忘れてしまっているのではないか。迷いについて『歎異抄』では

身の罪悪のふかきほどをもしらず、如来の御恩のたかきことををもしらずしてまよえるをおもいしらせんがためにてそうらいけり
『歎異抄』(真宗聖典640頁)

身の罪悪のふかきほどをもしらず、如来の御恩のたかきことををもしらないから迷っているのだと。普段「信心とは」とか「念仏とは」とさもわかったような顔をして話しているが、本当に自分をごまかすことなく罪深い身をしっかりと凝視し、自らを問い直すということがあるのか。本当に信心歓喜のお念仏を称えているのか。

親鸞聖人は自身の在り方を直視されて、

愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証に近づくことを快しまず
『教行信証』親鸞聖人(真宗聖典251頁)


とごまかすことなく正直に述べらています。

また『歎異抄』では

念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころのそうらわぬは、いかにとそうろうべきことにてそうろうやらん」と、もうしいれてそうらいしかば、「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもいたまうべきなり
『歎異抄』(真宗聖典629頁)

ここでは親鸞聖人ご自身も唯円と同じく「念仏申しても歓喜のこころが湧いてこないし、浄土へ往きたいというこころもない」とまで言われるのです。唯円もまさか親鸞さまも自分と同じこころであったとは思わなかったでしょうね。親鸞聖人のようなお方ならいつも信心歓喜の念仏を称えていらっしゃると思っていたはずです。そしてよろこぶべきことを、よろこべないからこそ往生が定まるのだとまでいわれます。
勿論これらは開き直っているわけでも強がっているわけでもありません。
阿弥陀さんに本当の自分の姿を知らせていただいたこそ出てくる悲嘆ともいうべき表白であり、そんな身であるからこそ、いよいよ本願がたのもしく思えてくるのでしょう。念仏申しながらもいつの間にか善人になり、本当の自分から目を逸らし、ごまかしながら生きているのが私たちです。それが私たちの本性なのです。ある意味、私たちは自分から目を逸らしている方が楽なのかもしれません。醜い自分の姿を見たくないですから。自分の思いという自己満足の世界に浸っていたい。しかし本願のはたらきに遇うと、本願が私たちをそこに座り込ませない。私たちの思いからは、自分から目を逸らしたり、ごまかしたりする思いしかでてこないのですが、本願のはたらきに遇うと「お前はそれでいいのか」と本願に引き戻されていくのです。
個人的な喜びを捨てて、喜ぶべきことを喜ぼう、または喜ばなくてはいけないと思ってしまいますが、喜ぶべきことを喜べない私であるからこそ出遇うことができる本当の喜びがあるのだと思います。それは単なる喜びではなく、悲嘆、懺悔を伴った喜びなのです。
私たちは一体何を喜びとしているのか、何を悲しみとしているのか、考えてみませんか。

2011年10月13日木曜日

助かる身になって 救われるのではない この助からざる者を 救うてくださるのが 仏さまです


自力というは、わがみをたのみ、わがこころをたのむ、わがちからをはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり
   『一念多念文意』親鸞聖人(真宗聖典541頁)
自力とは、わかりやすくいうと、自分を買いかぶっていることです。
そんな私たちは、念仏すれば救われると聞けば、がんばって念仏しようとする。いやそんな自力の念仏では駄目なんだ。他力の念仏を称えなければ救われませんよと聞けば、がんばって他力の念仏を称えられる者になっていこうとする。どこまででも努力していこうとするのが私たちです。

だから他力のお念仏の教えを聞いていても、聞いたことによって少しでもましな人間になって、救われていこうとするのです。お念仏申すことによって、少しでも仏さまのお眼鏡に叶うような者になったつもりでいるのです。さらに念仏申す自分は、念仏申さない者よりも善い者になったつもりでいるということもおこってきます。

そういう自負心や善人意識を蓮如上人は

仏法には、まいらせ心わろし。是をして御心に叶わんと思うなり。仏法のうえは、何事も、報謝と存ずべきなり

『蓮如上人御一代記聞書』蓮如上人(真宗聖典879頁)

「まいらせ心」と表現されました。自分は念仏しているのだという善人意識、自分はこれだけのことをしたという自負心のことです。自分はこれだけ親鸞聖人の教えを聞いて念仏してきたのだから、きっといつか救われるはずだと、見返りとしての救いを要求する。自分は救われる資格がある者になったつもりになり、確証はないけれども、そのうちに救われるはずだと信じ込んでしまっているのです。

他力の教えを聞いている者は、うっかりすると自分はもう自力をはげむ者でなくなったのだと思い込込んでしまいますが、そうではなくて他力の教え聞くことによって自力の生き方しかできない救われ難い身を生きているのだなあということに気づかせていただくのです。 


他力他力とおもうていたが思う心がみな自力
ああ 恥ずかしい南無阿弥陀仏
森ひな(石川県小松市) 
  
仏智うたがふ罪ふかし 
この心おもひしるならば 
くゆる心をむねとして 
仏智の不思議をたのむべし
   

『正像末和讃』親鸞聖人(真宗聖典507頁)

自力や他力やと言っても、それらは自らの分別でしかないわけです。他力他力と言って自力から離れた者であると思っていたのですが、実は仏智を疑う生き方をしていたのはこの私であったのです。私たちにはどこまでいっても自力しかない、恥ずべき者なのです。「ああ 恥ずかしい」と回心懺悔するところに善人から悪人への大きな転換が起こるわけです。悪人とは助からざる者であると自覚した人のことです。その助からざる者を救うてくださるのが仏さまなのです。

私たちは救いというと、今抱える苦悩や悲しみがなくなることを救いと考え、助かった状態の自分を思い描き、それを握りしめながらなんとか助かろうともがき苦しむのですが、皮肉にも自分で思い描いた救いというものに逆に苦しめられているわけです。実は助かる身になることが救いなのではなく、助からざる我が身に頷くところに、私が追い求める救いという呪縛から解放される。その時には既に救いが必要なくなっているわけです。それは苦悩や悲しみがなくなったということではありません。苦悩や悲しみはそのままに、苦悩や悲しみ、そして疑いを縁に開かれる「くゆる心をむね」としながらお念仏に帰っていくのです。苦悩や悲しみを抱えながら生きていくことができる道がそこに開かれてくるのです。

不安は私のいのちやもん 不安とられたら生きようがないわ 

山崎 ヨシ(石川県白山市)

2011年9月12日月曜日

一寸先だけが闇ではない 一寸先も闇の身であると知るとき 一寸先も明るくなる



震災直後、想定外という言葉をよく耳にしました。確かに今回の津波や原発事故は想定外のものだったでしょう。実際に言葉を失うような想定外の甚大なる被害がもたらされました。しかし震災から何ヶ月か経過した今になって思うに、震災直後は想定外という言葉を使って受け入れがたき現実を必死に受け止めようしていたのではないかと思うのです。また想定外という言葉で無意識的に「仕方がなかったのだ」と言い訳をすることによって必死に身を守ろうとしていたのではないでしょうか。

冷静に考えてみると、世の中は想定外だらけです。想定外に備えて色々準備をしているけれども、明日の日は分かりません。さらにその準備ですら想定内のものです。その想定が破られたときのことを想定外というのですから、私たちは想定外に対して完璧な備えをすることは不可能です。必死に抵抗しますが、一瞬先は闇です。何が起こるか分かりません。だから恐ろしい。だから私たちは大抵、今日よりももっと良い明日を思い描きながら生きています。または、そこまで望まないがせめて今日と変わらぬ明日であることを望みます。しかしそれらの思いこそが闇であると仏教は教えてくれます。一瞬先のみが闇なのではなく、今も闇に身をおいているのだと。

仏教では「無常」ということを強調しますが、私はこれまで無常と聞くと『平家物語』に「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり・・・」とあるように、何か物悲しく、今あるものが崩れ去っていくような、とにかくマイナスイメージしかありませんでした。今健康であるけれども、健康ということはいつか病になるということです。また今若いということは、これから老いていくことです。生まれたということはいずれ死んでいかなければならないということです。しかし無常の道理に頭で頷けたつもりでも、プラスイメージになるものでは決してありません。むしろ「これも無常の道理だから仕方がない」というような後ろ向きな受け止め方にしかならないことの方が多いように思います。

どこかに無我、無常について「固定しないでどんな環境にも対応していける。自分を固定しない」と書かれているのを読んで無常のイメージが一変しました。どんな自分であっても、どんな環境であってもいいのだと。本当に無常を知るということは実は、とても自由で明るいことだったのです。この先どんなことがあったとしても事実を事実としてしっかりと受け止め、積極的に生きていくことができるのです。想定外という言葉で言い訳するのではなく、事実を受け取とめたところから立ち上がっていけるのですね。

無常だから赤ん坊が大きくなり、
    つぼみが花になるんです。

相田みつを


無常だからこそ震災から立ち上がっていくこともできる。

2011年8月9日火曜日

ミーミーと 降り注ぐ いのちの叫び声



今年は地震の影響なのでしょうか、あまり蝉の声が聞かれないと報道されていました。その後どうなったのか知りませんが、当寺の境内では例年になく蝉の大合唱が勇ましく聞こえてきます。以前は毎年夏になると沢山の蝉が出てきたのですが、十数年前の本堂改修時に蝉のすみかだった境内の菩提樹を工事の妨げになるということでやむなく根っこから切り倒してしまったのです。それ以降、すっかり蝉の声が聞かれなくなってしまったのですが、ようやく引越しが完了したのでしょうか今度は菩提樹の近くのケヤキにものすごい数の蝉たちが出てくるようになりました。境内の木々の下に立っているとまるでシャワーのようにその鳴き声が降り注いでくるのです。そしてしばらく見上げていると自然と一体となったような不思議な感覚に襲われます。蝉が短い命をすり減らしながら精一杯発するその声に命の輝きとまた儚さを教えられたようでした。

蝉は蝉であるということに迷うこともなく、あるがままにいのちを輝かせながら精一杯生きている。自然と一体になって、あるがままに生きているのである。あるがままということは必然ということです。自然のリズムに逆らうことなく生きているということです。
しかし私たちはどうでしょうか。不自然極まりない反自然的な生き方をしているのではないでしょうか。自分探しという旅に出たまま人生を彷徨い続け、自然を自分の都合のいいように改変、破壊し続け、挙句の果てには深刻な汚染によって人間や生き物たちの住む大地を海を空をを失い…便利で快適な生活を追い求めてきた背景には数多くの犠牲が伴っているという悲しみを私たちは忘れていたのでしょう。目先の享楽を優先して大切なことから目を背けてきたのが私たちなのではないでしょうか。

今回の原発事故でこれまで当たり前に湯水の如く使用してきた電力について、否が応でも立止まらされ、そして見直しをせまられています。私もこの事故が起きるまでは、環境意識がなかったわけではありませんが、コンセントに挿せばいくらでも電気が湧いてでてくるような錯覚に陥っていました。クリーンで安全だというオール電化のキャッチコピーのもと電力の美点ばかりにしか目を向けず、「これからの時代はオール電化住宅だよね」とオール電化住宅が急速に普及してきました。特にここ北陸のオール電化住宅の普及率は全国ナンバーワンだそうです。その一因に北陸のガス料金が少し割高ということもありますが、クリーンで安全で更に電気料金がお得ということで、皆さんが選ばれたのでしょう。そのためオール電化に対してあまり悪いイメージを持っている人は少なかったのではないでしょうか。実は私の住宅もオール電化なのですが、恥ずかしながらその電気がどのようにして作られているのか一度も考えたことがありませんでした。オール電化を選択したことで電気代が節約になりCo2の削減に貢献しているのだという思いしかなく、罪の意識というものはこれっぽっちもありませんでした。ここ石川県にも原発がありますし、これまで原発反対運動なども報道はされていましたが、それらは能登半島の問題で自分にはあまり関係のないこととして目を背けてきたのです。目を背けてきたということは、推進してきたということです。私が原発を作らせてきたのです。便利な生活を追求してきた私たち一人ひとりが原発を作らせてきたのです。

この夏、国民の度節電意識が高まりみんなが協力して節電しながら暑い夏を乗り越えようとしています。日本国民が協力し、助け合いながら、節電しているということは、とても素晴らしいことだと思います。でも忘れていけないのは節電していても電気を使用しているという事実です。エアコンを消すことができない事実です。やはり快適な生活をしたいのです。当たり前ですが節電しても電気を使用しているのに変りないのです。使用している量が多いから駄目、少ないから良いという問題ではないのです。例えば、食べ物を沢山食べる人とあまり食べない人で、どちらが罪深いか?いのちを沢山殺してきたという点においては沢山食べる人のほうが罪深いのかもしれませんが、いのちをいただかなければ生きていくことができないという事実に立つとど両者の罪深さに違いはありません。だから節電している人=善、エコカーに乗っている人=善とはならないのです。むしろ節電意識や環境意識が高い人ほど自らの罪深さに気づかないということがあるかもしれません。

原発事故以降、様々な代替エネルギーが検討されています。Co2の排出量を減らしながら、これからも増えていくであろう電力需要に応えていかなければいけないということですが、急速に地球温暖化が進んでいる中にあってそれらの要求に応えていくことは大変困難であることが予想されます。テレビなどの報道では「脱原発」、そして太陽光発電、地熱、風力といった安全かつクリーンな発電方法が脚光を浴び、様々な可能性が検討されていますし、実際にそのような方向に否が応でも進んでいくことだと思います。ただしそうなっていくからといって原発=悪、太陽光発電、地熱、風力=善ということではありません。原発が悪いわけではありません。私たちはこれまでも、そして現在も原発によって作り出された電気で生活させてもらっているわけですから、もっと感謝しないといけないのかもしれません。あんなに無残な状態になるまで耐用年数を超えて働かされてきたわけですから。単純に原発=危険ということだけではなく、「福島第一原子力発電所長い間お疲れ様でした。安全に運用できなくてゴメンナサイ」とこのような視点がもっとあってもいいような気がします。原発自体は何も悪くないはずです。誤解のないように言っておきますが、私は別に原発を推進しているわけではありません。むしろその逆です。今回の事故による環境汚染や被爆者、そしてこれまでも多くの被爆者をだしながら運用してきたという事実を見せつけられたわけですから。

次に太陽光発電、地熱、風力などが善にならないのはなぜでしょうか。私たちはクリーンで安全だということでそれらの発電方法にシフトしていくことが善いことなんだと当たり前のように思っています。仏教で問題になるのはその善いことをしているという自分の思いです。人間の都合で環境破壊してきた挙句、今度は自然環境を修復していこうとしている、その人間の都合で自然を支配しコントロールしていけると思っている。そこに人間の自然に対する傲慢さが表れているように思います。仏教では「自然」を「じねん」と読みます。「しぜん」と言うときは自然の中に私が含まれていないのです。自然を対象化し人間の思いでどのようにでも支配していけるという私たちが普段、環境問題を考える時などに無意識的に自然に対して接してしまっている自然との関わり方です。これに対して「じねん」という時には自然の中に私が含まれているのです。私も自然の一部だったのだと知る時、自然の流れの中でその流に逆らう不自然な私というものが知らされてきます。そこに自然に対する畏敬の念というものが生まれ、自然を破壊しながらしか生きて行くことのできない我が身の事実に頭が下がるのでしょう。その流に逆らう生き方しかできない我が身の事実が知らされるところに、流に逆らう不自然な私がそのまま自然と流がれていくのです。なんでこんなめに合わなくてはいけないのだということも、このような目にあうことが今の私には必要なことだったのだと、必然のこととして受け止めていくことができるのです。なるようにするのでもなく、なるようにならないのでもなく、なるようになっていたのだと。

これだけの事故をおこして、環境汚染が広がっても、便利な生活を止めることができないのが私。こんな私をも許してくださっていた世界を蝉の声に聞いた今年の夏でした。

2011年7月9日土曜日

ご先祖様は 眠っているのではない 眠っているのは私たち



今回はお盆ということもあり、ご先祖様を題材に書かせて頂きました。
亡き人に向かって「どうぞ安らかにお眠りください」というセリフをよく耳にしますが、そこには生きている者と亡くなった者との間に深い断絶というものを感じられます。そもそも私たちはそのような言葉を亡き人に言うことができる立場にあるのでしょうか。なにか生きている者の方だけが明るい世界にいて、亡くなった人にはこっちの世界の邪魔をしないように眠っていてくださいと、そのように聞こえてしまうのは私だけでしょうか。悪いことが続いたりした時に「先祖の祟りだ、だからお参りしなければ」ということを言う人がいますが、よく考えてみますとご先祖様が何のために子孫に悪さをする必要があるのでしょうか。むしろ子孫である私たちの幸せを願ってくださっているのがご先祖様なのではないでしょうか。

眼を開けたまま眠っている私たちに、眼を覚ませと呼びかけてくださっているのがご先祖様であり仏様なのです。しかし私たちはご先祖様だけでなく仏様も眠っている人にしてしまっているのです。ご先祖様はお墓で眠っているわけではありませんし、仏様はお寺で眠っているわけではないのです。眼を覚ませと私たちにはたらきかけてくださっているのがご先祖様であり仏様なのです。
「夢を持て」と言うが、そんな夢なんていくらもっても駄目だと思う。人生のために命を懸ける、人生に目覚める、ということが一番大事なことである。 
曽我量深先生の言葉』津曲淳三
夢の中で自分の思いという幻を追いかけ、夢の中で人生を虚しく過ごしているのが私たちはまさか自分が夢の中を生きているとは夢にも思っていないのではないでしょうか。朝起きて眼を覚ました時にはじめて眠っていたということがわかるように、「私の人生」という夢から覚めないと、今まで眠っていたということも、夢を見ていたということも気がつかないのです。

人間の心が求めるのはアヘン。仏様はアヘンから醒めることを求める。 
安田理深

そうは言っても私たちは夢から覚めたいとも思っていませんし、むしろ夢を追いかけていたいですし、ある意味、思い通りにはならないという事実から眼を背けて夢を追いかけるほうが楽なのかもしれません。
しかし本当は思い通りにならないということは、夢から覚めるチャンスなのです。北海道のお寺の坊守で癌で若くして亡くなられた鈴木章子さんは
私はこの癌は、「章子、目覚めよ!何をしている。章子、目覚めよ!」とみ仏様が私のほっぺたにビンタしてくれた音だと聞かせていただいております。 
『還るところはみなひとつ~癌の身を生きる~』鈴木章子
癌のおかげで目覚めることができたとまで言われています。私たちは思い通りにいっているときにはなかなかこのような世界に目覚めることはできませんが、大切な人の死や自らの死を意識するような病に出会った時、その悲しみや苦しみをくぐり抜けて大切なものに出遇わせていただくのです。悲しみや苦しみに向き合わないと「目覚めよ」というご先祖様や仏様の声は聞こえてこないのです。
目覚めてはじめて「無眼人、無耳人」の私でありました、ということに気付かされていくのです。その時、思い通りにならなかったことに意味が見い出され思い通りにならなかったこともすべて受け取っていくことができるのだと思います。
せっかくのお盆なのですから、自分にとってご先祖様とは何かもう一度問い直し、ご先祖様からのメッセージに耳を傾けたいものです。

2011年6月7日火曜日

如来の呼声が響流し 今、私に南無阿弥陀仏と響く



大無量寿経というお経に「響流十方」という御言葉がありますが、「響」と「流」で「こうる」と読みます。余談になりますが、私はこの「響流十方」という言葉が好きで、昨年生まれた息子の名前に一文字いただいたぐらいです。仏様の私たちを救わんと呼びかけるその呼声はただ響いているだけではなく、響き流れていると。美しい言葉だと思いませんか。ただどこか遠くで響いているだけではなく、私たちのところまで流れ届けられているのです。私がいて、遠くの仏様の声が流れてくるのを聞くというのではない。仏様の呼声は遠い昔の話ではなく、今お念仏する私たちがその流の真っ只中にいるということです。だから「響流」という言葉に時間的な広がりを感じさせられます。また「十方」は空間的な広がりを意味するのでしょうから、「響流十方」ということは仏様の声が届かないところはないということでしょう。どんな時代の人であっても、どこにいる人であっても、男女貴賎、老少善悪を問わずすべての人のところまで届けられているのです。

今、私が南無阿弥陀仏とお念仏申すということは、その響き声が私のところにまで届けられたからこそ、念仏申さんとおもいたつこころがおこってきたということです。それは私がおこしたのではない。如来におこさしめられたのです。私がお念仏申すということに先立って、仏様が念仏申せよと呼びかけてくださっていたから、念仏申さんとおもいたつこころがおこるということがあるのです。

「卒啄同時」という言葉があります。卵から雛がかえる瞬間、内側から雛が殻を突付くのを「卒」、外から親鳥が突付くのを「啄」といいます。このタイミングが合わないと雛は死んでしまうそうです。仏様の呼声を聞くということと私がお念仏すということは同時です。如来の響きが私に南無阿弥陀仏となって響いてくるのです。そしてその卵の殻が破れてみたら、そこには大きな世界が開かれていたのです。響流の真っ只中にいたのです。

改めて考えてみますと、お念仏の歴史とは響流の歴史といえるのではないでしょうか。響きの流の中で釈尊、七高僧、親鸞聖人、そして名も無き念仏者たちがその響きの流の中に身を置き念仏を響かせてきたからこそ、今私たちのとこにまでお念仏の教えが届けられてきている。そして私たちも響きの流の中でお念仏を響かせながら、流れの一員として流れ続けていくのです。

前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪え、連続無窮にして、願わくは休止せざらしめんと欲す。無辺の生死海を尽くさんがためのゆえなり 
『安楽集』道綽禅師