先日、あるお家へ内報恩講のお参りにお伺いした時のことです。そこのおばあさんが、「今日は報恩講さんや、めでたい。今年も一年無事に過ごすことができた。ありがとう」とおっしゃっていました。勿論、報恩講は一年の無事を喜ぶ行事ではありません。しかし、それでは私は、一体何を喜びとしているのであろうか?阿弥陀さんや親鸞さんに感謝やと言いながら、本当に感謝の思いがそこにはあるのだろうか?との問いをそのおばあさんからいただき、改めて考えさせられたことです。
私たちは普段から「ありがとう」という言葉を多用しています。しかしどうもその喜びの出処が浅いようです。それはとても個人的なことを喜んでいるだけなのではないでしょうか。物事が自分の思い通りに運んだり、自分の家族や親しい人の思い通りに運んだり時に喜んでいるのです。もっと範囲を広げてみても、自分の仕事や故郷や国がうまくいっていることを喜んでいるだけで、極端かもしれませんが、隣の家で涙を流していようが、隣の会社や国がどうなっていようが、周りを蹴落としてでも自分のところさえうまくいっていれば「ありがとう」「お陰様で」なのです。
これらは「自分の家族」「自分の会社」「自分の国」というようにすべて頭に「自分の」「私の」がつくことからも分かるように、とても個人的で自己中心的な喜びです。私たちはそういう喜びに何の疑問を持つことなく生活しているのですが、阿弥陀さんや親鸞さんはそういう生き方をしている、そういう生き方しかできない私たちを悲しんでおられるのです。
そういう個人的な喜びで満足できるのならば、それでもいいのかもしれませんが、その喜びは一過性のものであり、本当の満足を得られるわけではなく、どこか虚しい。個人的な喜びでは本当の喜びとなってこない。しかし虚しいと感じるということは、そこに本当に喜ぶべきものに出遇ってくれよとの弥陀の本願がはたらきがあるからこそ、虚しさを感じるわけです。本当は個人的な満足に浸っていたい私たちですが、本当に満たされることがない。私たちは心の奥底で本当に喜ぶことができるものに出遇いたいという要求をもっているからこそ、虚しいと感じるのでしょう。
親鸞聖人はご和讃に
本願力にあいぬれば
むなしくすぐるひとぞなき
功徳の宝海みちみちて
煩悩の濁水(じょくしい)へだてなし
『高僧和讃』親鸞聖人(真宗聖典490頁)
と言われる。
そう言われても、喜ぶべきものを喜ぶことができずに虚しい。念仏していても生きる力や喜びとなってこない。何故迷っているのか、何に迷っているのか、そもそも迷っていることすら忘れてしまっているのではないか。迷いについて『歎異抄』では
身の罪悪のふかきほどをもしらず、如来の御恩のたかきことををもしらずしてまよえるをおもいしらせんがためにてそうらいけり
『歎異抄』(真宗聖典640頁)
身の罪悪のふかきほどをもしらず、如来の御恩のたかきことををもしらないから迷っているのだと。普段「信心とは」とか「念仏とは」とさもわかったような顔をして話しているが、本当に自分をごまかすことなく罪深い身をしっかりと凝視し、自らを問い直すということがあるのか。本当に信心歓喜のお念仏を称えているのか。
親鸞聖人は自身の在り方を直視されて、
愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証に近づくことを快しまず
『教行信証』親鸞聖人(真宗聖典251頁)
とごまかすことなく正直に述べらています。
また『歎異抄』では
念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころのそうらわぬは、いかにとそうろうべきことにてそうろうやらん」と、もうしいれてそうらいしかば、「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもいたまうべきなり
『歎異抄』(真宗聖典629頁)
ここでは親鸞聖人ご自身も唯円と同じく「念仏申しても歓喜のこころが湧いてこないし、浄土へ往きたいというこころもない」とまで言われるのです。唯円もまさか親鸞さまも自分と同じこころであったとは思わなかったでしょうね。親鸞聖人のようなお方ならいつも信心歓喜の念仏を称えていらっしゃると思っていたはずです。そしてよろこぶべきことを、よろこべないからこそ往生が定まるのだとまでいわれます。
勿論これらは開き直っているわけでも強がっているわけでもありません。
阿弥陀さんに本当の自分の姿を知らせていただいたこそ出てくる悲嘆ともいうべき表白であり、そんな身であるからこそ、いよいよ本願がたのもしく思えてくるのでしょう。念仏申しながらもいつの間にか善人になり、本当の自分から目を逸らし、ごまかしながら生きているのが私たちです。それが私たちの本性なのです。ある意味、私たちは自分から目を逸らしている方が楽なのかもしれません。醜い自分の姿を見たくないですから。自分の思いという自己満足の世界に浸っていたい。しかし本願のはたらきに遇うと、本願が私たちをそこに座り込ませない。私たちの思いからは、自分から目を逸らしたり、ごまかしたりする思いしかでてこないのですが、本願のはたらきに遇うと「お前はそれでいいのか」と本願に引き戻されていくのです。
個人的な喜びを捨てて、喜ぶべきことを喜ぼう、または喜ばなくてはいけないと思ってしまいますが、喜ぶべきことを喜べない私であるからこそ出遇うことができる本当の喜びがあるのだと思います。それは単なる喜びではなく、悲嘆、懺悔を伴った喜びなのです。
私たちは一体何を喜びとしているのか、何を悲しみとしているのか、考えてみませんか。